2015年8月31日月曜日

あるマルクス経済学者のプロパガンダ(21) ─ リバタリアンこそが正しい?

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マルクス経済学者の松尾匡氏の連載「リスク・責任・決定、そして自由!」の最終回「新観念創造者としての自由と責任――突然変異と交配、そして淘汰」を拝読した。マルクスの唯物史観を説明するために、生物進化論と言うか経済物理学なモデリングが説明されている。ライフゲームの応用のような感じだが、こういう議論があっても良いであろう。しかしモデルの詰めが甘いので、モデルが結論をサポートしているように思えない。むしろリバタリアンこそが正しいと言った結論にすら読める。

例え話が多くてモデルが把握しづらいのだが、次のような前提らしい。一人の人間(培地、土台)が複数の行動原理(ウィルス、上部構造)を知っている世界で、人間から人間へ行動原理は広まっていく。人間は行動原理の利用確率(ウィルスの分布)を、自己の厚生最大化のために任意に割り振る事ができる。利用確率の割り振りは、「試行錯誤して選択する」とあるので適応的だ。行動原理の普及は、多くに人間に多くの利用確率を設定されている行動原理が普及するようだ。前提が自然かは別として、実際のウィルスが何だか分かっているのか不安なのも置いておいて、ここまでは良いとしよう。

1. 行動原理(ウィルス)の変異の設定に一貫性が無い

ここから先に、モデルの定式化に混乱が見られる。行動原理は、突然変異して新しいものが創造されるそうだ。そして、「必然性に縛られて起こるものではありません。ランダムに起こる」とある。ところが、この文の二つ下の段落で、自己の欲望にあわせて変異するように記述されており、必然性を反映するとされている。さらに、自覚的にオリジナルな行動原理を創出する者は、自分の作った行動原理が淘汰されないようにしないといけないともあり、ここでは必然性だけで作られる。さらに「交配」の説明がされる前に使われている。また意味が取れない。

周囲の他人が利用した行動原理の結果は観察できる気がするが、試行錯誤するしか無いと言う前提なので、自覚的にオリジナルな行動原理を創出する余地は無いように思える。そして、自己の厚生最大化が人間の目的なので、作り出した行動原理が普及するのか淘汰されるのか、関心を持つ必要が無い。行動原理の「創造者としての自由と責任を自覚した協同組合やNPOなどの関係者」と語られているが、なぜ同じ人間であるはずの彼らが理想社会の設定を目指すのかは示されていない。

2. 行動原理にタブーはあるのか無いのか

他にも一貫性が無い部分はある。「いろいろなレベルで新しいアイデアをタブーなく思いつくこと」が「真に実現されるべき」行動原理の「自由」とある。しかし、自殺のような「原理的に試行錯誤ができなくなってしまう選択」は制限されるべきだと主張しているので、タブーはある。死なないで試行錯誤していけば、いつか理想状態に辿り着くと言う楽天的な話なのであろうか。しかし理想状態は定義されていないので、それが実現されるかもまた分からない。規範を曖昧にして来たので、不明瞭なことになってしまった。

3. 生き残った行動原理はリバタリアンの理想

明確に書かれては無いのだがサバイバル世界で、理想社会の行動原理が生き残るとされている。もし理想社会の行動原理が生き残らなければ、帰結主義者はリバタリアンでは無いので行動原理を管理統制しなければいけないが、それは主張されていない。ここに問題がある。

最終的に淘汰されずに生き残った行動原理が、素晴らしいモノだとどうやって判別するのであろうか。あらゆる行動原理が人々の選択に入っていたとしても、囚人のジレンマのような状態になる事はありえる。他人がある行動原理を知っていれば高い厚生が望めるのに、他人がその行動原理を知らないために低い厚生にとどまる事も、(定義が独特ではあるが)自由の制限と問題にしているのだが、知られていない行動原理が無ければ厚生損失は問題ないのであろうか。

過程を重視するリバタリアンからすれば、生き残った行動原理こそがベストと言う事であろう。松尾匡氏から見ると自殺が問題らしいが、人間の身体は神の所有物だから物品と違って人間が自由に処分できないとすれば禁止できる。松尾氏は帰結の理想状態が分からないから手段としてサバイバル世界の生き残りを理想としている気もするが、リバタリアンと同じ事を主張することになる。

4. 信じる社会的厚生関数を曖昧にして揺れ動く

前回は素朴な帰結主義者と言い、今回はリバタリアンと松尾匡氏のことを見ていて一貫していないが、書かれている連載のエッセイが二つの間を揺れ動いているから仕方が無い。信じる社会的厚生関数を自身にも曖昧にしすぎていて、信じる社会的厚生関数なんて無いと勘違いしたのでは無いであろうか。

松尾氏は、固定的人間関係を前提としたシステムを流動的人間関係に組み合わせると悪い結果だと言って来た。つまり、松尾匡氏は信じる社会的厚生関数を持つ帰結主義者だ。行動原理が淘汰される結果を待たずに、世の中がこうあるべきだと知っていたはずなわけだ。サバイバル世界の生き残りを待つ必要は無い。

長々と松尾氏が何を試みていたかと言うと、自身が信じる社会的厚生関数を隠そうとしていた。自分が正しいと思う社会的厚生関数を明らかにすると、価値観の押し付けになるので周囲から厳しい批判が飛んでくる。ロールズもそうだし、シンガーもそうだ。それが嫌なのであろう。しかし、判定してしまっているので、隠しきれていない。

隠しきれていないが、隠そうとしているので必要なときに使えていない。「マルクスの唯物史観が示すような社会変遷が、生物進化を記述するときの手法で表せる」として、その結果が望ましいものかどうか点検しないといけないが、生き残った結果が望ましいかのように書いている。社会的厚生関数を隠すと、結果ではなく過程が絶対になるので、リバタリアンになってしまう。

5. もし松尾型社会的厚生関数を定義していたら

この連載の最初の方で松尾型社会的厚生関数を定義してしまっていたら、すごく見通しが良くなっていたと思う。独自のでなくても、功利主義者やロールズの主張を借りてきたって良い。流動的/固定的人間関係の社会システムに、流動的/固定的人間関係に適応した倫理の組み合わせがあることを議論して、2×2の4パターンの松尾型社会的厚生を説明すればよい。その上で流動的-流動的であるべきと結論してしまえば簡潔であった。

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