2013年11月6日水曜日

あるマルクス経済学者の動学最適化に関する議論をラムゼー・モデルと比較してみる

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前のエントリーのコメント部分でのマクロ経済モデルの安定性に関しての議論で、マルクス経済学者の松尾匡氏が「成長論モデルの基本構造──恒常成長への収束性と市場調整の安定性が別問題であることについて」と言う反論を寄せられた。

ウェブでも松尾氏は「経済成長論の数学モデルで、時間を通じて運動する変数が一定の値に落ち着いていくことと、そのモデルで、売れ残りや品不足、失業や人手不足といった市場の不均衡が、自動的に解消される仕組みになっているかどうかということは、別の問題」と主張を説明している。

この主張は受け入れ難い。なぜならば大半の動学マクロ経済モデルはそれぞれの時点で均衡が達成され、均衡状態が続くことで定常状態に収束するように出来ているからだ。各期の均衡と均衡状態は密接な関係があり、そもそも定常状態も各期の均衡の一つとなっている。均衡が達成されなければ、定常状態にたどり着くことは無いであろう。

基礎的な動学マクロ経済モデルとしてラムゼー・モデルを念頭に置きつつ、松尾氏の主張の問題点を考察していきたい。

1. ラムゼー・モデルを復習してみよう

良い子のためにラムゼー・モデルを復習しておこう。毎期、家計が労働と利子で賃金を得て、投資と消費を行う経済だ。企業は投資を受け入れ、家計を雇って生産を行い、利子と賃金を払う。家計も企業も無数にあり、完全競争が仮定されている。労働供給曲線は垂直だが、労働需要に応じて賃金は自由に変化するので完全雇用だ。そして投資によって資本蓄積が生じて、だんだんと定常状態に近づいていく。

位相図を描くと上のようになる。縦軸のCtが消費、横軸のKtが資本。毎期の投資=貯蓄と消費の比率は、常に定常状態へ資本蓄積していく黒矢印の鞍点経路にのる。もし鞍点経路上の競争均衡点より投資過剰であれば、資本の価値が低下して消費が増えて、競争均衡点にジャンプする。もし競争均衡点より消費過剰であれば、資本の価値が増して、競争均衡点にジャンプする。

鞍点経路から外れた資本と財の価格を強制し続けたら、上図の赤線のように資本蓄積は不安定な経路を辿り、黒色の鞍点経路から外れてしまう。つまり、ラムゼー・モデルの教える所は、毎期、競争均衡が達成されていることによって、定常状態を達成できると言うことだ。なお、定常状態に至る経路は効用最大化と言う意味で、最適となる。

モデルの詳細や図の描き方は「動学マクロ経済学と言う名の非線形連立方程式を解いてみる」を参照のこと。

2. 松尾匡氏の主張とラムゼー・モデルの齟齬

松尾匡氏の主張は、上述のラムゼー・モデルが記述する現象と合致しない。競争均衡から外れていると言うことは、資本と財がそれぞれ超過需要もしくは超過供給になっていると言うことだからだ。モデルは不均衡のまま経済が運営されれば、定常状態に辿りつかない事を明確に示している。

松尾氏は新古典派経済成長モデルの原型であるソロー・スワン・モデルを拡大し解釈しているわけだが、このモデルでは貯蓄率の決定を内生化しておらず、家計や企業が明確に存在しないため、それに起因する問題があるように思える。幾つか気付いたところを列挙してみたい。

  1. 松尾氏は恒常成長経路(定常状態)が収束するかと言う問題と、市場調整が均衡するかと言う問題が別であると宣言するのだが、上述の通りラムゼー・モデルでは密接に関係している。繰り返しになるが、均衡から外れる(=間違った価格がつけられる)と定常状態に進む鞍点径路から外れて、発散してしまう。逆に定常状態が存在しないと、家計が投資の価値を評価できないので、それぞれの時点の均衡点も計算することができない。松尾氏の議論は、ソロー・モデルの貯蓄率とゼロ以上の人口増加率が一定と言う仮定に大きく依存しているように思える。
  2. 松尾氏はⅡ節でコブ=ダグラス型の生産関数を例に規模に関して収穫逓増の生産関数で完全雇用が達成されるかのような議論を展開しているが、恐らく間違っている。生産関数の形状によっては独占や寡占の可能性を排除できなくなるのは、ミクロ経済学の教科書にしっかり書いてある事だ。すると過少雇用になる可能性もある。また、一人あたり生産関数をf(k)=k2と置いた簡単な反例でも打破される(詳細は後述する)。
  3. 松尾氏はⅢ節で「各時点の財市場均衡が不安定なケース」を議論しており、物価、投資調整費用関数、そして通期でのネットキャッシュフローの最大化を目指す投資関数が導入されている。しかし、本質的に財は一つ(消費財と資本財の限界変形率は1)なのに物価が変化する理由が分からない。また、通期でのネットキャッシュフローの最大化を目指した投資行動を行うわけだが、ソロー・モデルの特色である貯蓄率が固定される前提は保持されており投資額はやはり一定なので、目的関数は機能しないように思える。また貯蓄率が変化したとしても、ネットキャッシュフローは消費量を意味しないので、暗に設定された家計の効用関数が一般のミクロ的基礎から乖離したものとなっている。
  4. 松尾氏は動学マクロのモデルに投資関数が無いと指摘しているが、これもソロー・モデルしか見ていないように思える。ラムゼー・モデルを見ると家計部門が通期の消費の最大化を計算しており、貯蓄率=投資量も内生的に決定されるので、投資関数を導出する事もできる。また、松尾氏は家計の投資行動を供給が需要を作ると言うセイの法則を意味すると松尾氏はしているが、生産物が必ず需要されるのは効用関数の局所非飽和が仮定されているからで、家計の投資行動とは関係ない。
  5. 追記(2013/11/08 04:00):松尾氏は新古典派成長モデルを指して、「この均衡はあらゆる価格のもとで成り立つので、価格変動による調整はそもそも必要がない」と主張するのだが、ラムゼー・モデルには資本財と消費財の価格がある(下図参照)。
    資本財と消費財の限界変形率は1なので、均衡では価格は常に1だ。しかし、需要曲線(=投資収益)と交わるところに均衡点がある事に注意して欲しい。もし資本財の価格が1より低いとすると均衡しない。
    松尾氏は「これらのモデルの多くでは、もともと物価という概念がない」と言うが、ラムゼー・モデル以降の貯蓄率が内生化されたモデルでは資本財と消費財の間に交換レート、即ち物価と言う概念が暗黙のうちに仮定されている。

マルクス経済学風味と言うか、レトリックで上手く誤魔化そうとしている気もするのだが、経済学をある程度学んだ人々は一般的なモデルにおける家計や企業の目的関数、労働市場や資本市場の均衡条件などの形式との差異を考えてしまうので上手くないように思える。

何はともあれ、変分法やハミルトニアンが出てきて、ちょっととっつきづらい所はあるが、ラムゼー・モデルで議論してもらいたい。

3. 資本の限界生産性が逓減しないと労働者1名の世界になりうる

箇条書きの(2)に関して補足しよう。一人あたりの資本をk、一人あたり生産関数をf(k)=k2と置いて、労働者がn人いるとする。f'>0、f''>0だから資本の限界生産性は確かに逓増している。生産量は人数×一人あたり生産だからY=n・f(k)となる。一次同次の仮定は保持されている。

さて、100人で生産を行うとしよう。蓄積された資本は100とする。一人あたり資本はk=100/100=1になり、生産量はY=100・f(1)=100となる。次に1人で生産を行うとしよう。一人あたり資本はk=100/1=100になり、生産量はY=1・f(100)=10,000となる。この経済では1人だけ働くのが最適となる。労働市場には99名の失業者が残るわけだ。

簡単な例だが、資本の限界生産性が逓減しないと均衡解があるとは言えないのが分かると思う。ソロー・モデルにある生産関数の条件は定常状態への到達を保証するだけではなく、それぞれの時点の均衡が達成されるものとするための条件となっている。

なお松尾氏が出した例は、労働者が減少する事による一人あたり資本の増加が生産に大きく影響しないために、労働市場がクリアされる事になったのだと思われる。一次同次の生産関数における一人あたり資本の限界生産物に関する条件が重要なわけだが、松尾氏は一次同次の仮定を捨てて収穫逓増の生産関数を出し全員の資本の限界生産物を議論することで、条件がそれぞれの時点の均衡に影響を与えないように見せかけたわけだ。

4. 均衡は過去から現在、そして未来につながっている

主だった部分は以上だと思う。松尾匡氏が毎期の均衡と定常状態が関連の無いように議論するように至った経緯は分からないが、説明するときにt期の均衡を求めてから、定常均衡を求めるよう事があるせいか、そういう誤解をされたのだと思う。しかし、実際にt期の均衡を求めるには、t-1期までの投資の累計や、t+1期から無限遠までの投資計画の情報が必要になる。逆に一般的な動学マクロ経済学モデルでは不均衡な解はでないように作られており、均衡点を辿らないと定常点にたどり着くことは保証されない。松尾匡氏が誤解しているのは、この辺の作法かも知れない。

ラムゼー・モデルと言う自由放任を推奨することになるモデルを紹介してきたが、これは完全競争、完全情報、完備契約、外部経済無し、取引摩擦無しなどの仮定が入るので、これを緩めると色々な事が発生する。家計の異質性がある世代重複モデルでは、均衡点や定常点は必ずしも消費を最大化しないのは、よく知られた話だ。そういう意味では、議論の発端の松尾匡氏の「配分の仕方がスムーズにちょうどいいものになる保証はなにもありません」と言う主張も間違いではないが、やや注釈が欲しい所なので以前のエントリーでは指摘してみた。なお、状況説明なしでは上手く行くことを仮定するという考え方に、ある種のバイアスがある事は否定しない。

4 コメント:

松尾匡 さんのコメント...

拙稿、詳しくご検討いただき、ありがとうございます。

順不同ですみません。
まず、収穫逓増生産関数の件ですが、ご提示されている生産関数は、Y=(K^2)/nということですので、労働に関してもともと減少関数になっているように思います。

生産関数が疑凹関数ならば、費用最小化問題に二階の条件を満たす最適な内点解があります。拙稿で出したコブ・ダグラス様の例は収穫逓増でも疑凹になっている例です。

それから、ラムゼーモデルを分権化したような新古典派の動学的一般均衡のマクロモデルに、投資関数があるとおっしゃっているその「投資関数」は、投資関数ではなくて、貯蓄関数のように思います。
通時的な最適消費問題を解いて消費決定したら、残りの貯蓄がすべて実物の投資になる想定が通例だと思います。
これを指して、私は投資関数がないと申しています。

この場合、必ずS=I、つまりSに従ってIが決まるので、セイ法則が成り立っていると言えると思います。効用関数の形状の問題は(最適な消費、したがって貯蓄が決定できるかどうかという問題にかかわっているかもしれないが、それはおいておいて)、この問題そのものには関係がないことと思います。

独立な投資関数があるならば、IにSがしたがわさせられて、セイ法則が破れる可能性がでてきます。

ご指摘の、一財モデルで財の絶対価格が規定できるかどうかということは、裏に貨幣市場を想定しているかどうかによります。財と貨幣との交換割合が絶対価格だからです。
通常の新古典派モデルは、貨幣の存在を想定していないために、相対価格だけがある想定になっています。

独立な投資関数があるためには、財や労働に加えて、何かの金融資産の存在を想定することが不可欠です。さらに投資が市場不均衡をもたらす性質を持つためには、資産の中でも、貨幣の存在を想定することが不可欠になります。
このとき、ワルラス法則から、財や労働の供給超過の裏に貨幣の需要超過が起こる可能性が出てくるわけです。
拙稿の、財と労働に供給超過が残るモデルも、裏に貨幣の存在が想定されていると解釈すべきものです。

だから、市場の機能不全が起こる最も重要な本質は、独占でも価格硬直でもなくて、貨幣への選好なのだというのが、現代のケインズ派の到達点になっているのだと理解しています。

さて、ラムゼーモデルですが、ご解説の、ステーブルアームをはずれたときの運動ですが、私自身横断条件という概念が完全に胸に落ちているわけではないので、こんなことを言うのはちょっと恐縮な気がするのですが、でも自分でも使っていますので…。
ステーブル・アームを外れて、オイラー方程式どおりに発散的に運動する経路は、横断条件を満たしていないので、これは、諸価格の流列がこの発散運動と整合的だったとしても、このモデルの中の人々がもともと最適行動として採用しないように思いますがどうでしょうか。私も自信があるわけではないのですが。

私が拙稿でソローモデルを使ったのは圧倒的に簡単だからで、分権ラムゼーモデルでもよかったのですけど、合理的期待や完全予見のもとで主体が最適化するときの本質は、拙稿では一番わかりやすいと思われる「合理的バブル」の例で説明しております。
そこでもうしたことの本質は、今回ご解説いただいている要点と同じことだと思います。

すなわち、わかりやすいように離散時間的表現をお許しいただければ、このモデルの中の人は、t+1時点、t+2時点と、無限の将来まで、おかきいただいたステーブルアーム上で成り立つ均衡価格を予想しています。
その予想のもとに、t期の需要や供給を解いて市場に出てくるのですが、それは、t期内での、おかいいただいている垂直の点線の上の「ジャンプ」と表現なさっている調整となり、独立投資がない等の想定のもとでは、ステーブル・アームに向かって安定的に動くでしょう。

いったい自分の言っていることをどのように受け取られているのか、把握できないところがありますが、上記ご解説もそれと違ったことをおっしゃっているようには思えません。
こちらが当初から言っていることのひとつは、t時点、t+1時点、t+2時点…と定常解に向かって運動が収束したとしても、そのことをもって市場調整が安定的であると示されたわけではない、各時点内の上記垂直点線上の市場調整が成り立っていなければ、定常解に向かう安定運動は画餅であって、新古典派はそれが成り立つことを前提しているのだということですが、ご主張はそれと同じことを繰り返えされているように見えます。

uncorrelated さんのコメント...

>>松尾匡 さん
コメントありがとうございます。

> ご提示されている生産関数は、Y=(K^2)/nということですので

資本をK、労働者をn人として、一人あたり生産が(K/n)^2で、全体がY=n*(K/n)^2になりますね。
Kとnをx倍すると、Yがx倍になる一次同次関数になっています。

> 労働に関してもともと減少関数になっているように思います。

資本の限界生産性が逓減すると言う仮定が排除されないと、こういう生産関数もありえることになります。

> 生産関数が疑凹関数ならば、

一次同次の生産関数が疑凹性を満たすとなると、一人あたりの生産関数fが、f'>0、f''<0を満たしますね。この条件が労働市場の均衡の存在に重要だと言う事です

> 拙稿で出したコブ・ダグラス様の例は収穫逓増でも疑凹になっている例です。

一次同次の仮定の維持が松尾さんと私の例の相違になりますが、資本の限界生産性が逓減する仮定を入れておかないと、私が例示したような状況を排除できません。

何はともあれ、生産関数の形状が均衡の存在に影響を与えることは確かだと思います。



> 独立な投資関数があるためには、財や労働に加えて、何かの金融資産の存在を想定することが不可欠です。

ラムゼー・モデルでは利子を生み出す資本ストックがあるので、これが金融資産になるはずです。

> ステーブル・アームを外れて、オイラー方程式どおりに発散的に運動する経路は・・・最適行動として採用しないように思いますがどうでしょうか。

所与の初期の消費量を前提に、家計が効用最大化問題を解いた結果になるので、最適行動にはなっています。ソーシャル・プランナーから見れば、最適では無いわけですが。

> 私が拙稿でソローモデルを使ったのは圧倒的に簡単だからで、

ソローモデルが簡単なのは分かりますが、貯蓄率を内生化していない時点で、資本市場もその均衡も無い事になりますし、家計の動学的な最適化行動も無い事になります。合理的期待も完全予見も無いわけです。

> 定常解に向かって運動が収束したとしても、そのことをもって市場調整が安定的であると示されたわけではない

ラムゼー・モデルが市場調整が安定的な均衡状態にないと、定常に達さないことを示しているのは確かだと思います。そもそも定常状態は一つの均衡になっているわけです。

> 各時点内の上記垂直点線上の市場調整が成り立っていなければ、定常解に向かう安定運動は画餅

ラムゼー・モデルに置いてですが、不均衡が定常解をもたらさないと言う意味なら、その通りになりますね。しかし、その場合は「恒常成長への収束性と市場調整の安定性が別問題」とは言えないはずです。

松尾匡 さんのコメント...

いや、もともとの始まりが、ご議論が、新古典派成長論の定常解への収束性をもって市場均衡の安定性の証明であるように読めたので、「それは証明とはならず、各時点での市場調整の安定性を検討しなければならない、各時点の市場調整が安定でなければ、定常解に向かう運動がいくら収束しても画餅である」ということを言いたいために、「恒常成長への収束性と市場調整の安定性が別問題」と表現したのです。
市場調整の安定性が恒常成長への収束性を何らかの意味で条件づけているのだから別問題ではないというご指摘だったとしたら、全くその通りで、もともとそれを言いたかったのです。
市場調整がうまくいかない場合の原因論については、まだ互いに納得してないと思いますが。

uncorrelated さんのコメント...

>>松尾匡 さん
> 市場調整の安定性が恒常成長への収束性を何らかの意味で条件づけているのだから別問題ではないというご指摘だったとしたら、全くその通りで、もともとそれを言いたかったのです。

私の主張はそういうことで、御理解頂けて幸いです。
MS-WORDのドキュメントの方、例えばⅤ節の冒頭を見ると、そう読むのが難しいので本エントリーで指摘しました。

> 市場調整がうまくいかない場合の原因論については、まだ互いに納得してないと思いますが。

市場調整がうまくいかないケースについては、“うまくいかない”が不均衡を意味していると、現代的なマクロ経済学から技術的な意味で乖離が激しくなりますね。

均衡状態で生じる問題に関しては様々な種類の研究があり、特定の原因を主張するのは無理があるかも知れません。

なお松尾さんが例示されているⅢ節の議論については、独占企業が投資量を決定しているようなのですが、物価pや利子率iを決定する式もなく、あの説明だけだと理解するのは難しそうです。

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