ぼちぼち話題だった『殴り合う貴族たち』をぼちぼち拝読した。
賢人右府の二つ名を持つ藤原実資さんの日記の記述などを元に藤原道長の頃の平安時代の貴族たちの乱暴狼藉を紹介する本で、貴族の名前が覚えられないので読み進まないことを除けば面白い。
日本史の教科書では平安時代の雰囲気が良く分からないのだが、政府設備だった羅城門跡の礎石を藤原道長さんがくすねたとか、強盗に服を奪われて放置された女官が凍死して犬の餌になってしまった(と言うことになった事件)などの逸話が補完してくれる。
本書は社会制度との関係を論じているわけではないのだが、天上人の振る舞いを咎めたり、貴族間の諍いを仲裁する社会制度が不備であることが、平安貴族のフリーダムさの大きな理由になっていることが分かる。藤原道長の息子の教通や頼宗はチンピラ(不善の者)を囲って乱暴狼藉をさせていた云々(pp.136–139)とあったり、『武士の起源を解きあかす』*1の王臣子孫の問題は、王臣子孫の上澄みの貴公子にも当てはまることが分かる。荒三位の二つ名がある藤原道雅あたりまで突き抜けるとむしろかっこいい気がしてくるが、実際にはお会いしたくない。なお、貴公子の皆様自身もどうやら武闘派。ネット界隈では「侍の本懐は、ナメられたら殺す!」の武士道*2が野蛮人扱いされているときがあるが、まだ鎌倉武士や室町時代の人々は一族の名誉のために諍いをしているわけで、個人的な我侭を通すために殴り合っている平安時代よりマシな気がしてくる。平安時代、よく300年弱も続いたものである。いや、律令制が問題の根源だから450年ぐらいは、こんな時代だったのか。
貴族の皆さんは暴力スキルを活かして仕事をしている気配がほとんどないのだが、長徳の変で花山法皇の袖を矢で射抜いて左遷された藤原隆家さんは、その後、大赦を受けたのちに大宰権帥になり、刀伊の入寇で功績を立ててている。態度の悪い受領の皆さんを制裁するのにも必要だったようだ。敦明親王は加賀守源政職を拉致監禁暴行している。政職さん、加賀国の豪族から告発されているし、禎子内親王への債務返済を踏み倒そうとしたし、貢納と言うか租税の国庫納付を行わなかったりしたようなのだが、何にお金を使っていたのかが謎であった。
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