2019年2月15日金曜日

律令制の崩壊史『武士の起源を解きあかす』

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ほとんどの人は百姓の子孫な気がする日本国だが、武士をアイデンティティにしている人々は多く、サッカー代表をサムライ・ブルーなどと呼んでいる。長い間、支配階級として君臨していたためか大人気である。某ゲームの影響で竜王や魔王も人気であるが、共通性を感じざるを得ない。実際、竜王や魔王と同様に、どこから発生したかも良くわからないそうで、諸説あるそうだ。

武士の起源を解きあかす——混血する古代、創発される中世』は題名通り、武士の起源を議論した本。定説もしくは主要学説を紹介した本ではなく著者の独自見解が主張されているが、「我が国は古来…」と根拠レスなことを言い出すおっさんに疑問を呈するのに使う分には十分な議論が展開されている。武士の起源が御代なのだが、律令制の崩壊史となっていて興味深い。

1. 血統の良いギャング王臣家

律令制は制度的に大きな問題を抱えていた。王臣家に不正行為に走らせる強い動機をつくりだす一方で、(皇族と五位以上の公家である)王臣家を罰則が軽くなる特権階級に定めており、不正に歯止めが利かなくなって行政機構が崩壊することになった。律令制の官職は任期付きであり経済的に不安定な地位であり、さらに王臣子孫が増加していく一方で彼らが就く官職の数は一定であり競争が厳しくなったこともあり、王臣家の私的利益の追求が行政を阻害するようになった。朝廷も問題を認知しており、多くの規制が勅令で制定されたが、違勅罪は懲役1年半から2年の罪にとどまり、五位以上の者であれば罰金刑で済み、六位以下でも位階の剥奪と罰金刑で済んだ(pp.71–72)。王臣子孫ではない国司や元国司も不正蓄財をしていたが、王臣家と言う特権階級が致命傷になった。そんな特権階級を作らなければよかったように思えるが、大化の改新が天皇と藤原氏の共同統治体制で出発したため、藤原氏が特権を得る仕組みが必要だった(p.71)。王臣家のフリーダム感はなかなかのものである。墾田永年私財法(743年)を悪用して荘園を形成した(pp.82–83)のは教科書にも載っているが、勝手に民を徴用して開墾させたり、戸籍の形骸化をついて口分田の不正取得(pp.178–180)を行ったり、王臣家の手下が京に入った年貢を朝廷が受け取る前に自分の取り分に色をつけて差し押さえたり(徴物使; 891年に勅令で禁止)、年貢を途中で強奪(強雇)したりと(pp.170–175)、血統の良いギャングでしかない。

2. 地方豪族への弓騎の普及

非力な腕力のギャングは存在しえない。王臣家をギャングたらしめたのは、歩射と騎射の弓術(弓騎)である。弓騎の鍛錬には余暇が必要なので、民が弓騎を習得することには無理があった。722年、朝廷に服属しない集団である蝦夷に対抗するために陸奥の民に弓騎を教えることを試みた(p.43)が、837年に弓を諦めて弩の装備が提案されている(p.44, p.58)。弓騎の担い手の供給源は、延臣と郡司・富豪百姓であった。「飛鳥時代末期の天武天皇の時から平安初期まで、全皇族と全延臣は弓矢と軍馬を各自常備し、弓術と馬術の鍛錬に日々励む義務を課せられ、定期的に、鍛錬の結果を天皇の前で披露するように義務づけられた」(p.43)ために、平安初期までは延臣から弓騎兵を募集することができた(p.60)。また、亡命百済人や蝦夷の影響で、郡司から出てきた有閑集団である「子弟」や富豪百姓が暇に任せて弓術に習熟するようになり(有閑弓騎)、弓騎兵の別の供給源となった。聖武天皇のときに彼らが「健児」として軍事力として使われるようになり、蝦夷との三十八年戦争(774年~811年)の間、780年に全国的な徴兵をやめることになった(p.58)。歩兵による集団戦が確立していなかったためか、多人数を訓練するノウハウが無かったのか、徴兵制は有効ではなかったようだ。有閑弓騎は朝廷に供出するべく国司・郡司が把握・確保していたが、王臣家にも提供されていた。さらに、三十八年戦争の終結とともに軍団は解散し、弓騎兵は全国に散ることになり、一部が王臣家の配下(王臣家人)になり、一部が群盗化した(p.104)。弓騎兵を残さなかったため、朝廷は王臣家や群盗に直接対抗する手段を失った(pp.119–120)。

3. 王臣子孫を婿にとり武士化する地方豪族

王臣家の横暴により「伝統的郡司(国造の末裔)が、没落し始めた」(p.172)のだが、地方豪族である郡司富豪層の彼らは中央の勢力と結託することで生き残りを図る。国司として地方に下ってきた王臣子孫と婚姻関係を結び王臣家に転化することで、官僚としてのノウハウや中央へのパイプ、さらに貴姓を手に入れ、収奪される側から収奪する側に回った。経済的に脆弱な王臣子孫にとっては、生活の保障と「収奪や恫喝に最も有効な武力(有閑弓騎)」を手に入れる利益がある(p.76, pp.226–230)。平安中期以降の王臣子孫は武人ではなかったが、地方豪族の血統には武人があり、将種としての教育が継承されており、領主階級で貴種で弓馬術の使い手である武士(p.31)と言う集団を形成するに至った。藤原秀郷の例などを見ると、貴姓に関わらず地方豪族の血統が大半で、地方豪族の生き残り戦略の結果と考えて良いようだ。著者は「古代氏族のあまりのしぶとさに驚かされる」(p.321)と評している。なお、地方の武士と京都の朝廷や王臣家が没交渉であったわけではなく、滝口武士として雇われるなどして往来があった。

4. まとめと感想

日本史の基本用語を忘れているので読むのもつらいぐらいだったので、著者が眉をひそめそうな理解な気もするが、こういう流れで武士は成立したようだ。朝廷が王臣家の統制に成功し、軍事力を維持していたら武士が生じる余地は無かったのかと思うと、別に武士ではないが感慨深い。武家政権の成立は、律令制のオウンゴールであった。

本書の議論は、信憑性の高い史料が多くは無いようで推測は色々と入っているようだが、全般的に不自然な感じはしなかった。「東京出身の若手研究者が京都の大学に就職するのに、かなり似ている」(p.236)と文意が取れそうで取れない部分や、スマートフォンの原点がiPhone言うひどい歴史改竄が行われている(p.270)のが気になるのだが、議論自体には関係ない。

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