2018年7月5日木曜日

『(ポストモダンの)専門用語の「乱用」は何で悪いのですか?』

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ポストモダン界隈にあるよくある問題点の一つに専門用語の濫用がある*1のだが、哲学者の植村恒一郎氏が『専門用語の「乱用」は何で悪いのですか?』と言い出した(togetter)。濫用ではないと言う弁護はよく見かけるが、濫用を正当化しようとする議論は珍しい。しかし、ぽつぽつとその理屈を聞くことになったのだが、事実誤認と語義曖昧論法と自然主義的誤謬による詭弁になっていた。

植村氏の主張は、私が理解できる限り*2で、私なりの要約を行なったものだが、以下の三つである。それぞれ、氏の主張の問題点を指摘したい。

1. 専門用語の定義は表面的なものであり、学問に対して貢献していない
誤謬ですらない事実誤認。専門用語の定義が変わったら、付随する定理や法則が意味をなさなくなるので、定義はまさに学問の核心である。中世ぐらいまで曖昧な概念で科学や数学をしていて間に合っていたところもあるのだが、それでも言葉の定義がふらふらと変化していたわけでもない。従来概念を継承しつつも定義を厳密化・一般化することにより、学問的に発展している*3
2. 日常語は厳密に運用されず変化していくものであり、専門用語も日常語もしくは日常語の一部分を組み合わせて構成される以上はその経験則から免れ得ない。ゆえに、専門用語の濫用も悪いとは言えない。
自然主義的誤謬を起こしている。慣用句の誤用が広まり、それが一般化することはよくあるので、主張される経験則は正しい。しかし、経験的に生じやすい事は、望ましいことではない。誤用は話し手と聞き手のコミュニケーションに行き違いを生じさせるので、非難されている。実証(~は…である)と規範(~は…であるべし)を取り違えている。なお、実証的命題から規範は導けないことを、ヒュームのギロチンと言うそうだ。
3. 学問的な仮説は「言葉遊び」であり、専門用語の濫用も「言葉遊び」なので、専門用語の濫用は学問的な仮説に相当し、学問的進展に必要である。
学問的な仮説は「言葉遊び」ではないので事実誤認。仮に学問的な仮説が「言葉遊び」だとしても、語義曖昧論法になっている。学問的な仮説で使われる用語は、厳密なものでないといけない。しかし、ポストモダン思想家の「言葉遊び」では、専門用語をその定義とは乖離した意味で使っている。科学者の「言葉遊び」とポストモダン思想家の「言葉遊び」は別モノになる。

その分野の事象に触れないのであれば、その分野の専門用語を利用しないと説明できない事は(言語学者の研究でも無い限り)無いので、分野外の用語にはなるべく触れないのが望ましい。例えとして持ち出す場合でも、用語の背景まで理解するようにしないと、適切な説明にならずむしろ混乱を招くことになる。

追記(2018/07/06 03:18):ポストモダン一般の意見とは言い難いので、タイトル「ポストモダン『専門用語の「乱用」は何で悪いのですか?』」が不正確と指摘があったので、変更した。

*1「知」の欺瞞』の第1章(P.7~)で濫用パターンと問題点を4種類にまとめている。濫用以外の問題点としては、極端な社会構築主義/認知相対主義/道徳相対主義で、ありとあらゆる言説を相対化して議論に決着をつけることを否定しつつ、無根拠に自説を売り込むところなどがある(「なぜ科学を語ってすれ違うのか――ソーカル事件を超えて」の第4章を参照)。

*2植村氏の説明は、本文に挙げた以外にも色々と誤謬もしくは詭弁があって、なかなか論点を掴みづらかった。繰り返し使われる「意味のズレ」の「意味」が、用語が指し示すものではなく、知覚であったり、前提/法則であったりと、刻々と変化していく語義曖昧論法になっている。専門用語の濫用に関する批判に対して、生活語は濫用されやすいと弁解することを繰り返すのだが、これは立証が困難な主張(bailey)に対する批判を、しっかり論証できる主張(motte)に摩り替えて反論するモット・アンド・ベイリー論法と言う詭弁である。

*3例えば関数の連続性をε-δ論法で厳密に定義することで、逆像が開集合を開集合に移す写像が連続だと分かり、距離空間だけではなく一般の位相空間でも連続を考えることができるようになった。

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