2021年1月4日月曜日

表現の自由戦士は、それがツイフェミのものであって同意できなくても、表現物への批判の存在を受容しないといけない

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表現の自由戦士を標榜してきたはずのネット論客の青識亜論氏が、「さあ、炎上させてきたものたちを炎上させましょう。燃やしてきた者たちを、今こそ燃やしていきましょう。因果は巡る。炎の先にこそ、私達は相互に表現行為それ自体を燃やさないという《紳士協定》を作り出すことができるのです。」と言い出した。ネット界隈で批判や非難が集中することを炎上と言うわけで、青識亜論氏は報復を恐れて批判や非難がされない社会を目指している宣言をしたことになる。

自分の好きなものが非難/批判されるのは面白くないと思うが、表現が非難/批判されない社会と言うのは何も熟議できない社会になる。政府与党の政策を非難できないような事はもちろん、事実に基づかないフェミニストの主張に反論したり、環境活動家グレタ・トゥンベリ氏のラブドールが無承諾でつくられた事に対する批判を述べる事もできなくなる。つまり、青識亜論氏の今までの言説もダメで、氏が好んで言及してきた反転可能性テストもおそらくパスしない。

正しい意見だけを許すこともできない。部分的にしろ誤りを含んでしまうものだし、何が正しいのか判然としないことも多いし、大部分が正しくない意見でさえ、一抹の重要な観点を含んでいることもある*1。非難や批判も一つや二つであったら炎上とは言えないであろうが、非難や批判の数がコントロールできるわけではない。また、何かの表現物が炎上する事は、必ずしも悪い事ではないし、むしろ社会に必要なときもある。

ツイフェミの個々の主張に反駁しようとするのではなく、ツイフェミの振る舞いを正そうなどと思うから、何かの表現物に批判や非難が集中すること自体を不正とするような発想が出てくるのだと思うが、表現物が炎上する可能性がある社会の方が、表現物への非難や批判が許されない社会よりマシなわけで、それがツイフェミのものであって同意できなくても、表現物への批判の存在を受容すべき。

ツイフェミを非難したいだけで、表現の自由の重要性など考えてこなかったのではないか疑ってしまう。法哲学者ロナルド・ドウォーキンは「自由を得るために払う犠牲によって、たとえ本当に痛みで苦しまなければならないときでさえ、自由には、それと引き換えに得るだけの重要性が十分にある。」*2と言って表現の自由を擁護して来たが、相互に非難しあうという苦痛もまた、表現の自由に必要な代償だ。

追記(2021/09/09 11:05):カール・ポパーの「寛容のパラドックス」を引いて、ツイフェミの表現の自由を抑制しようとする人々がいるのだが、ポパーは鉄拳や拳銃によって表現の自由を奪う不寛容を抑制すべきと言っているので、ツイフェミが不寛容な思想から発言をすることを止める根拠にはならない。つまり、「不寛容な思想から来る発言を常に抑制すべきだ、などと言うことをほのめかしているわけではない。我々が理性的な議論でそれらに対抗できている限り、そして世論によってそれらをチェックすることが出来ている限りは、抑制することは確かに賢明ではない」とした上で、不寛容を排除すべき理由として「理性的な議論を「欺瞞だ」として、自身の支持者が聞くことを禁止するかもしれないし、議論に鉄拳や拳銃で答えることを教えるかもしれない」としている。

追記(2022/02/24 16:06):ネットで誹謗中傷されて自殺に追い込まれた芸能人を例に、表現物への批評はやめるべきだと言う主張があるのだが、芸能人は人格である一方、表現物はモノなので人格ではない。

*1追記(2021/10/25 08:04):書き忘れていたのだが、江口某氏のツイートを見て加筆した。

*2明戸隆浩 (2014)「アメリカにおけるヘイトスピーチ規制論の歴史的文脈 : 90年代の規制論争における公民権運動の「継承」」アジア太平洋レビュー,11号,pp.25?37

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