2019年6月3日月曜日

三兵戦術の集大成がわかる『戦闘技術の歴史4 ナポレオンの時代編』

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戦闘技術の歴史』の第4巻は、ナポレオン・ボナパルトの時代を取り上げていた。戦闘技術がテーマだけに、オラニエ公マウリッツ~グスタフ2世アドルフ~ナポレオンと続いた歩兵/砲兵/騎兵と兵科を分けて運用する三兵戦術の発展に関わる記述が大きな比重を占めている。ナポレオン時代のフランス陸軍が強力なのは、野戦砲の性能向上が実現されたところに、軍の機動的運用が実現されたためであったことがよくわかる。

グスタフ2世アドルフの頃と違い、マスケット銃に銃剣がつくようになり、3m超級のパイク(長槍)兵がいなくなって、戦列歩兵として銃兵に統一されるようになったのだが、強固な歩兵の隊列を打ち破るために野戦砲の利用が重要なこと、勝利を確定的にするために騎兵による掃討戦が重要なことは変わらなかった。上層部は砲兵の地位を引き上げるのに及び腰であったのにも関わらず、戦術的重要性から野戦砲の研究・開発が行われていき、兵制における比重も重くなっていく。

実験や解析学といった科学と言う方法が火器と言う軍事技術の研究開発に応用されはじめるのもこの時代からで、ベンジャミン・ロビンズは弾道振り子で小火器の研究し、1742年に『砲術の新原理』を世に出し、レオンハルト・オイラーがその著作をドイツ語に翻訳し、ロビンズの誤りを訂正し、弾道の数理的分析をさらに発展させた*1という記述がある(p.249)。なお、大砲の研究は、1775年のチャールズ・ハットン以降になるようだ。

戦場での機動性と運用性、生産における許容誤差の縮小が、技術開発の方向性であった。野戦砲の開発はオーストリア継承戦争の頃はプロイセンが先行していたが、オーストリアのリヒテンシュタイン公が火砲の専門家チームを組織し改良を加えて七年戦争ではプロイセンを凌駕、さらにフランスのグリボーヴァルの火砲システムがさらに上を行き、ナポレオンの軍隊を支えた。「最良の設計の砲身と砲架はイギリスにあった」(p.252)そうだが、この時代の欧州で大規模な交戦が少ないせいか扱いが小さい。なお、標準化は一つ前の時代のヴァリエールの時代からはじまっていた。

野戦の話だけが書いてあるわけではなく*2、最後の(蒸気機関を持たない)帆船の時代なのだが、方向と速度が風に大きく影響される帆船で戦争をするのには最後まで無理があったこと、砲兵と同時期に攻城戦や塹壕掘りに活躍する工兵も独立した兵科として発達しはじめることも分かるのだが、やはり野戦砲の発達がこの時代の戦争の特色だという印象を強く受ける。ぶどう弾やキャニスター弾など特殊砲弾も開発された。ナポレオンの時代の後は命中精度、速射性、耐気象性の向上により騎兵による突撃は完全に廃れ、塹壕戦の時代になる。

おっと最後に、禿で臭くても無敗の元帥ルイ=ニコラ・ダヴーさんについても言及しておきたい。

*1但馬(2009)「18世紀における流体力学研究と弾道決定問題」によると、ロビンズは解析学を用いていなかったので、オイラーが彼の主張する定理を片っ端から導出しなおしていった。

*2野戦の話も野戦砲の話の他に、縦隊と横隊の優劣論争があった一方で、縦隊と横隊で機動的に戦列歩兵の運用がされるようになったと大事な話も書いてある。

騎兵の話は、グスタフ2世アドルフの頃と比較すると、ポーランド騎兵から対歩兵用に槍が復活し、サーベル・チャージ一本だけでなくなったのが進歩なのであろうか。

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