2017年5月13日土曜日

労働市場シグナリング仮説と外部効果の推定量

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大学で学んだ事を仕事に活かしているかと聞かれて、答えに詰まる人は多いと思う。高等教育を受けている人の生涯賃金が高い事は分かっているが、医療系専門職などを除けば大学教育が職能を高めているかは明確では無い。

名のある企業家に大学中退者は少なくない。文系どころか理系で研究開発に従事する人で学部の専門とは全く違う事をするケースも数多くある。プログラミングをしていると、大学の教育内容を使っていたりするので職能を高めそうな気はするが、大学に通っていなくても知識として習得できているのも確かである。

教育された専門知を直接活かす機会がない高等教育を受けた人々の賃金向上は、いかなる理由でもたらされているのであろうか。

1. 人的資本 vs 労働市場シグナリング

大きく分けて、二つの説明がある。一つは、教育された専門知を直接活かす機会がなくても、大学教育が職務遂行能力の向上をもたらしていると言う、人的資本仮説だ。一つは、大学教育は職務遂行能力の向上をもたらすことは無いが、大学卒業が職務遂行能力に直結した地頭の良さや忍耐力を表していると言う労働市場シグナリング仮説だ。この二つの効果は排他的ではないが、どっちが主たるものかは興味関心がもたれている。

ところが統計的な判別は困難だ。生まれつきの能力が高い人は、勉強もできて仕事もできるので、大卒と高卒の賃金格差を眺めていても、人的資本と労働市場シグナリングのどちらの影響が大きいかは分からない。同じ年代、同じ生来の能力の大卒と高卒の人が、同じ仕事についたときの業務遂行能力の差があれば良いのだが、そういうデータは中々ないものだ。大卒と高卒が同じ業務についている会社もあるだろうが、ダメな大卒とできる高卒を比較してしまっている可能性は高い。

2. 外部効果の符号からの労働市場シグナリング仮説の判定

間接的に否定する結果と言うのはありえる。例えば、労働市場シグナリングが主要な効果である場合、労働者の移動が無い場合は、負の外部効果を持つ。外部効果は治安や衛生など様々なものが考えられるが、ここでは大卒の存在が高卒の賃金を高める効果のことを考えている。理屈を説明しておこう。

大卒の職場と高卒の職場があり、それぞれの職場ごとの労働生産性の平均値が、それぞれの賃金になる世界を考える。大卒の職場は全ての労働者の労働生産性が高いので高賃金になるが、高卒の職場は労働生産性の高い人と低い人が混在しているので低賃金になる。ここで高卒の職場にいた労働生産性の高い人が、大学に通って大卒の職場に移行したとしよう。大卒の職場の賃金は変わらないが、高卒の職場の賃金は下がることになる。つまり、大卒の比率が増えれば増えるほど、高卒の賃金が減る事になる。仮説の前提により大学教育は労働生産性を高めないので、高学歴化によっては社会的生産物は増えないところがポイントだ。

上の図は労働生産性が1.0と0.5の人が5人いる経済で、2人が大卒・3人が高卒の状態から、3人が大卒・2人が高卒に進学率が上昇した場合だが、高卒の賃金が0.666…から0.5に悪化し、0.111…だけ負の外部済が生じているのが分かる。

以上の理屈からすると、高等教育の外部効果を観察し、それがプラスかゼロであれば、労働市場シグナリング仮説は否定されることになる。ただし、この議論は進学率の変化だけを考えていて、労働者の転居については考慮されていない。

3. 労働者が転入出する場合の外部効果はゼロになる

進学と就職で居住地を変える人は多い。進学率の変化だけではなく大卒の流出入によっても、地域の大卒の比率は変化する。大卒者が流入してきた場合は、高卒の職場の労働生産性の高い人はそのまま留まるため、高卒の職場の賃金に変化は起きない。つまり、労働者の転居によって大卒比率が変化する場合は、高等教育の外部効果がゼロであっても、労働市場シグナリング仮説は否定されない。

上の図は労働生産性が1.0と0.5の人が5人いる経済に、新たに大卒1名が加わる場合だが、高卒賃金には変化が無いので外部不経済は生じない。なお、新たに高卒者1名が加わる場合は、1/3の確率で賃金は0.75になり、2/3の確率で0.625になるので、高卒賃金の期待値にはやはり変化が無い。

4. 計量分析による外部効果の推定値はゼロになりがち

ある労働経済学者が「人的資本なり教育なりに負の外部効果があれば、シグナリング仮説と整合的ですが、知る限り、外部効果の推定値は正かゼロ」と言う話をしていたのだが、大学進学率が上昇するケースを念頭に置いていて、外部から大卒者が流入するケースは考慮していないようだ。しかし、外部効果の計測ではミンサー・アプローチと言うものがよく使われていて、そこでは都市や州ごとの教育レベル(e.g. 大卒比率)が説明変数として用いられており、その係数を外部効果として用いており、労働者の転入出は排除されていない。上述の通り、都市間の教育レベルの差異は外部効果を持たないことになる。複数年のデータを見ているので、全体の教育レベルの変化も拾いそうだが、時系列ダミーが入っている場合は、外部効果ではなく時系列ダミーの係数が影響を受ける*1

5. 外部効果の消失と過剰推定

外部効果の推定量がゼロであっても労働市場シグナリング仮説は成立するが、プラスであったらやはり成立しない。この分野の代表論文はMorretti (2004)だそうだが、これの推定結果は高等教育の正の外部性をはっきりと検出しており、1980年代のデータでは労働市場シグナリング仮説は否定されている。しかし、過剰推定されており、それを補正すると外部性があるか疑わしいとCicconi and Peri (2006)は指摘している。さらに、Morretti (2004)の方法で1990年代のデータを分析すると、負の外部性を示すような結果が出てくることが指摘されている(Sand (2013))。これらから、労働市場シグナリング効果が弱いと言う明確な傾向はなく、むしろ近年は人的資本の蓄積効果よりも強くなっている事が予想される。

大学で学んだことを活かせる職業の数は定まっていて、大学教育が普遍化するとともに人的資本としての限界的価値が逓減していく一方、進学して卒業することが就業能力の証明になっている部分はそのまま残っている・・・などと解釈したくなるが、こういう安易な議論は避けた方が良さそうだ。Handbook of the Economics of Educationで業界の大物は労働市場シグナリング仮説を否定しにかかっている(Lange and Topel (2006))し、本当のところはまだはっきりしないと言っておくほうが良いであろう。そもそも多種多様で同じ分野でも中身が刻々と変化する高等教育を、十把一絡げにして分析してよいのかもよく分からない。

*1簡単なシミュレーションでこの挙動は確認している。

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