2015年12月10日木曜日

出だしからコケている気がするリベラル懇話会

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リベラル政党のための、リベラル政策を検討する、リベラル懇話会なるものが設立された(財経新聞)。出だしから、物凄く残念な感じが漂っている。マーケティング的にも、民主党の諮問機関としての実態から考えて、表に出てこない方が良い気がするのだが、コンセプトが一つの倫理観に依存してしまっているし、それへの理解にも混乱が見られる。その道の人が、検討した上で書いたとは思えないのだが。

プレスリリース中のコンセプトの説明を見てみよう。

健全な経済成長をベースとしながら、経済学者アマルティア・センが提唱する人びとの「潜在能力」の自由と平等を実現し、「機会の自由vs結果の自由」という硬直した図式を乗り越え、多様かつ他様な人びとの「生き方の幅」を、社会的連帯の維持とともに考察していく――それが私たちの考える「厚みのある社会」「社会的包摂」の基本構想です。

『経済学者アマルティア・センが提唱する人びとの「潜在能力」』と書いてあるのだが、リベラルな人々には功利主義者もロールズ主義者もいるし、どう考えても直観主義に基づいた主張を行っている人々もいる。ケイパビリティ・アプローチがリベラルの倫理として定着したかのような書き方は疑問だ。私なら「経済学者~乗り越え」の部分は「倫理学分野の有力説に原理を求めつつ」ぐらいしか書かない。

『結果の自由』と言う表現が意味不明だ。センが使っている用語ではないと思う。『機会の自由』に併記される概念としては、『過程の自由』の方が適切であろう*1。前者は帰結を改善するための手段としての自由を認め、後者は固有価値を認める権原としての自由だ。しかし、過程を結果と言い換えているとしたら、混乱を招く。

センの議論を踏襲しているとして、『「機会の自由vs結果過程の自由」という硬直した図式を乗り越え』て良いのであろうか。センの示したリベラル・パラドックスは、過程の自由とパレート原理が両立しないことを主張している。センを踏襲するのであれば、「機会の自由」しかあり得ない気がしなくも無い。

『「潜在能力」の自由』と言う所も、おかしい。潜在能力(=ケイパピリテイ)は、それによって達成できる程度を含めた選択肢の集合なので、ケイパピリテイ自体が自由を表す。自由の自由となってしまっているわけで、この表現は無い。執筆者、ケイパピリテイの定義を確認したのであろうか。

そもそもケイパビリティ・アプローチは現実適応できるのであろうか。ケイパピリテイ自体が集合として定義されるので、個人間比較をどうすれば良いかは問題になる。つまり、「潜在能力」の平等とはいかなるものかが、良く定義されていない。平等が定義できたとしても、資源配分の効率性が維持できるのか良く分からない。天才に教育を与えず凡才と同じケイパピリテイにしても、平等ではあるが効率的では無いであろう。近年、理論的に大きな発展がある可能性はあるが。

なぜに、こんな厄介なものを持ち出して来たのであろうか。「福祉・障がい」を専門とする委員が多数いる。センの『功利主義者なら、身障者のAさんよりも快楽名人のBさんの方に多くの所得を与える』(「合理的な愚か者」P.232)と言うのを真に受けたのであろうか。ロールズは障害について熱心に議論をしなかったので、功利主義がケイパビリティ・アプローチの有力代替肢になる。この議論、功利主義者であれば「車椅子を得た障害者の喜びの方が、クロスバイクを得た健常者の喜びよりも大きい」と言い切って終わると思うのだが*2

細かい所だが、「健全な経済成長をベースとしながら」と言うところも気になる。こういう書き方をすると「健全な経済成長はどれぐらいなのか?」と言う問いを生じるので、「経済効率を損なわないように」とでも書くほうが無難である。理論分野で議論されているのはパレート原理との整合性であって、これは経済成長を直接扱うものではない。

厚生経済学者が見たら、もっと色々と問題がありそうな気もするが、プレスリリースの一部からもこれだけの疑問が出てくる。リベラルや左派の人々は安易に原理原則を導入して党派性を規定し、その原理原則に縛られて硬直化していくきらいがあるのだが、このリベラル懇話会もその罠にはまっていたりしないであろうか。これにこだわるつもりが無いのかも知れないが、じっくり練られたものとは思えない。

追記(2015/12/11 04:00):中の人の北田暁大氏からコメントが来たので追記しておきたい。

追記(2015/12/11 14:50):現時点で「機会の自由vs結果の自由」は「機会の平等vs結果の平等」に訂正されている。

*1以下の議論は『アマルティア・センの世界』を参照しつつおこなった。特に機会と過程の自由に関しては「市場経済の効率性と自由」(P.44)の節による。

*2経済理論としては面白みはないのだが、功利主義者は他人の幸福や苦痛と言った利益不利益を、自由度を残しつつも押し付けがましく規定してくる。麻薬で得た快楽は利益として認めていないようだし、快楽名人と言うことで増幅された分を利益として認めない事は許されるであろう。

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