2015年11月20日金曜日

障害を持つ胎児を中絶することは倫理的であり得る

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茨城県の県総合教育会議で、日動画廊副社長・長谷川智恵子氏が出生前診断によって、障害のある子どもの出産を防げるものなら防いだ方がいいと発言した*1ことに対して各所から批判が上がり、長谷川氏は謝罪に追い込まれた*2。しかし、氏の真意はよく認識されていないようだ。ナチス・ドイツにおける優生政策と結びつける人が見られるのだが、どちらかと言うと出生前診断の普及促進によって親に選択肢を与えようと言う話になっており、大きく曲解されているように思える。そして不道徳な発言のように非難されているが、良く知られた倫理から擁護することも不可能ではない。

既に産まれている子供を不要と否定したと非難している人もいるのだが、出生前診断による障害を持つ(可能性の高い)胎児の中絶によって、重度の障害児を「減らしていく」としているから既に産まれている子供を不要と否定したと言うのは誤りだ。また、政府や地方自治体が親に中絶を強制すべきだと言う解釈も、そのようには主張していないので、むしろ出生前診断によって親に選択肢を与えようと言う議論に思える。二年前から新しい出生前診断が利用できるようになったが、父母両方の希望が必要など利用は制限されており、少なくとも利用が促進されているわけではないのが現状だ。

程度にもよるが、障害のある子供の養育には現実として大きな負担がある。もし負担が無いと言うならば、特別支援学校など障碍者支援は全て止めればいいことになるが、長谷川氏への批判者はそれには賛成できないであろう。さらに、重度障害者の人生は周囲が羨ましいと思えるものに、まずならない。障害を負うことを歓迎する健常者はまずいないし、可能ならば障害を除去する手術を受ける障害者は多い。保護者の人生が、障害者の子供の世話で何の希望も無く終わってしまう可能性すらある。出生前診断の結果によって中絶を選択できるようにすれば、保護者の人生の質は向上する。

親の人生の質の向上があったとしても、中絶される障害をもった胎児の生命は尊重されるべきと考える人もいるかも知れない。しかし、胎児の生命は親の人生ほど価値がないと言う考え方もある。倫理学者のシンガーは、自分の将来に関する欲求を持つことができる、理性的で自己意識のある存在を「人格」として定義し、「人格」の利益不利益を規範の基礎に置くことを主張している*3。この定義からの議論では、胎児は「人格」ではないので、その生命は「人格」の生命と同等に尊重すべきとは限らない。なお、この世に生まれ出た重度障害者は自己意識を持てば「人格」になるので、ナチス・ドイツにおける優生政策は否定される。

明らかに不道徳な言説だと思い込んでいる人が多いようだが、ある功利主義の立場から、長谷川氏の主張を擁護することは難しくない。特別支援学校と言う公的負担の大きさを目にした後の発言と考えると、ある種の生々しさを感じなくもないのだが。

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