2014年7月31日木曜日

あるマルクス経済学者のプロパガンダ(9)

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マルクス経済学者の松尾匡氏の連載の続き『「自己決定の裏の責任」と「集団のメンバーとしての責任」の悪いとこどり』が公開されていた。責任と言い出した時点で倫理学の世界に入っていて、マル経らしく分野横断的な議論になっている。こういうアプローチは近経だと相当偉くならないと許してもらえない(と思っている)が、悪いと言うわけではないであろう。しかし、まだまだ思考中なのかも知れないが、風聞でしか倫理学を知らない私から見ても、全般的に論が軽い気がしてならない。松尾氏の倫理感を自明のように押し付けている。

1. 責任概念の説明が練れていない

『二種類の責任概念と「自己責任」論』の節で「責任」を説明しようとするのは良いのだが、自然で明確な定義に失敗している。もう少し分類を練る必要があると思われる。

(1) 自己決定の裏の責任:自分で決めたことのせいで他人に不利益を与えないようにし、万一不利益を与えたときにはきっちり補償し、自分が不利益を被ってもそれを自分で引き受けること。

一般に自己責任と言ったときに、他人に不利益を与えるか否かは関係ない。製造コストを削減し、製品価格を引き下げてライバル会社に打撃を与えても、補償は求められない。後の議論にも関わるが、「他人に・・・補償し、」は削除したほうが良さそうだ。

(2) 集団のメンバーとしての責任:自分が決めたかどうかにかかわらず、ある集団に所属することにともなう役割を果たす責任。

責任概念を「役割を果たす責任」と説明するとトートロジーになるので「任務や義務」などと言うふうに表現して欲しい。

松尾氏の分類では(1)に入れられている損害賠償責任は、(2)に入れた方が良いであろう。集団のメンバーとしての任務や義務が規定されていないと、損害賠償責任は決定できないからだ。例えば他人の器物を壊せば弁済義務を負うが、火事の延焼で火元の責任は問われない。

2. 二つの責任概念の関係が不明瞭

民事賠償責任が責任概念(2)に分類されているせいで、二つの責任概念の関係が不明瞭になっている。

『自己決定は善か悪か、「補償」か「詰め腹」か』の節で、(1)は民事賠償、(2)は刑事罰に対応しているように記述されている。『自己決定は善か悪か、「補償」か「詰め腹」か』の節以降では、(1)は倫理的に問題が無く、(2)は倫理的に問題あるケースのように記述されている。しかし民事賠償を負ったときに倫理的に問題が無いわけがなく、これは松尾氏も償いが「倫理的に要請」されると言っている。

3. 「いいこと」≠「容認すべきこと」

以下の部分の「いいこと」は、「容認すべきこと」の間違いでは無いであろうか。リスクを考慮して実効しないことは「いいこと」ではないと言えないはずだ。

「自己決定の裏の責任」の場合、リスクのある未知の試みに自由にトライすることは、権利として立派に認められる「いいこと」です。ただしその結果が悪ければ、結果について責任をとるというだけです。
「自己決定の裏の責任」の方の責任概念に基づく自己責任論ならば、リスクのある挑戦はもともと「いいこと」です。ましてやヒトのために危険を顧みない行動をするのですから、誉められてしかるべきです。

また、パターナリスティックな観点に立てば、「容認すべきこと」なのかも怪しくなってくる。台風で荒れた海でサーファーが失踪したとして、例え捜索が行われなくても、命を大切にすべきと言う倫理感から無謀だと非難する人は現われるはずだ。

4. 救済無き道徳的非難が不当とは言えない

2004年のイラク日本人人質事件に関して、「政府は何もせず、道徳的に非難もする」のは間違っていて、「政府が同胞として救出した上で、道徳的に非難する」か「道徳的に誉めて、政府は何もしない」にすべきだと主張している。権利と責任を連結させるのは社会主義者の癖ではあるが、松尾匡氏の倫理感を主張しているに過ぎない。

人質になったNPO職員を批判をするならば、「(2)集団のメンバーとしての責任」を果たしていないと言う観点であるべきで、「(1)自己決定の裏の責任」を果たしていないと言うのはおかしいと言うのは理解できる。しかし、生き方自体を規定するような倫理感を持っている人もいるわけで、そういう人から見れば政府が救済しようがしまいが道徳的に非難しても問題無い事になる。逆に道徳的な批判にはあたらず、政府は保護を試みるべきだと言う主張もあり得るはずだ。

なお米国など世界標準では「道徳的に誉めて、政府は何もしない」と松尾氏は主張しているが、単にツボが違うだけで「政府は何もせず、道徳的に非難もする」ケースはある。例えば米国では売春行為に対して批判的で、売春婦を締め上げるような政策も取られているが、代わりの生活保護を与えているわけではない。

5. アメリカ新古典派経済学流自己責任論?

経済学で責任と言う概念は議論されることは私が知る限りないし、社会的状態の是非は効率(パレート原理か補償原理)と衡平で判断されるから誤解を招く表現に思える。マル経と近経である種の断絶があるのは分かるが、松尾匡氏の連載ではこの分野の記述に違和感が残る事が多い。手っ取り早いチートペーパーとして「幸せのための経済学」をお勧めしたい。

2 コメント:

松尾匡 さんのコメント...

毎度どうも。

1.ですが、製品価格を引き下げてライバル会社に打撃を与えることがこの意味での責任を問われるわけではもちろんないので、たしかにこの表現だけでは不十分ですね。むしろ、田舎町とか昔の系列とか、同じ集団内部のコンフリクトだったならば、「集団のメンバーとしての責任」が問われる事態にあたると思います。
読者に誤解はないと思いますが、書籍化までには誤解のないような表現を考えておきましょう。

民事賠償責任についてのご指摘はよく理解できないのですが、2.の倫理の話は今後詰めていく予定です。

3.の話は、「いいこと」はもう少し正確には、「侵害が許されないこと」ぐらいの意味になると思います。サーファーの例は、後の回で「自殺の自由」をめぐる問題を検討する予定なので、そのときに検討される問題にあたるのだろうと思います。

4.5.ですが、人の行動に対してどういう評価を割り当てるのが適切かという社会規範をめぐるテーマは、経済学も含む一つの大きな分野で、例えば神取道宏先生も、広く共有されている非常に単純な基本モデルでの、ひとつの社会規範タイプに「カンドリ型」と名前を残したりしています。

社会規範は、「制度」の一種で、他のいろいろな社会システムと整合的しあって、セットになってうまくいくものです。
「うまくいく」というのも詰めれば問題含みの言い方ですが、まあ、おおざっぱにはパレート効率性レベルぐらいで議論できることです。

支配的な社会システムと整合的な社会規範と反する倫理観を抱くことは全く自由なのですが、その場合には、自分の倫理観に整合的な社会システムを主張するべきで、その、整合するかどうかということは、学理的議論の対象になるのだと思います。
拙論でしていることもそうであって、私自身は集団主義的なシステムが崩れていることを肯定して、それと整合的な社会規範になることを提唱する身ではありますが、それと反対の社会規範を望ましいとして、集団主義的システムを再建しようとする立場はあってもいいと思います。
しかし、例えば、雇用流動化とか成果主義に賛成して自己責任論を唱えておきながら、「集団のメンバーとしての責任」の方の責任概念に重心をおいた社会規範を維持することは、整合的でないということです。

uncorrelated さんのコメント...

>>松尾匡 さん

出版決定おめでとうございます。さて、コメントの内容に関して、幾つか指摘させてください。


「うまくいく」と言う所ですが、経済学の文脈では大きな困難を抱えている所に思えます。

パターナリスティックな規範概念を認めると、個人の自由と、パレート原理を満たす社会的選択の方法は存在しないと言うリベラル・パラドックスに突き当たります。また、効率性と衡平性を両立させるのも、かなり困難なようです。

他人の状態を一切考慮しない個人主義的な倫理を採用できれば一気に解決できそうですが、それは経済学の範囲を超えているかも知れません。


> 例えば、雇用流動化とか成果主義に賛成して自己責任論を唱えておきながら、「集団のメンバーとしての責任」の方の責任概念に重心をおいた社会規範を維持することは、整合的でないということです。

どう整合的でないのかを、もっと明確に議論する必要があると思います。整合的でないことを示すには、松尾流の社会厚生関数を置く必要があるのでは無いでしょうか?

全般として、公平性を重視しているように感じられます。つまり、集団メンバーとして貢献/我慢した人は、集団から利益を得られるべきと言う前提が暗に置かれているのではないかと。

こういう考え方がおかしいと言うわけではないですが、集団メンバーとしての責任は相互扶助を前提として求められるべきと言う観点から、整合的を論じていることには注意する必要がありますね。

なお、米国の保守派のように集団メンバーとしての責任が宗教的に定まっていると考える人々であれば、自己責任論を唱えつつ他人の生き方を強く規定しても、何も不整合に感じていないと思います。

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