2016年1月3日日曜日

空っぽのリベラルの心に魂を埋めるために

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日本で「リベラル」を自称する人々の思想的背景は、大学で習うような伝統的な哲学や倫理学とは関係がなく、社会運動をしていく中で培われたモノだと言って良いと思う。この傾向に問題を感じる「リベラル」もいるらしく、その主張を正当化するために倫理学方面の議論を参照しようとしているのだが、浮いた感じの議論になっていて宜しくない。流行りものに取り付かれていて、伝統的議論からの乖離してしまっている。少しはまともな議論が出来るように、簡単な文献を紹介してみたい。

1.『倫理学の話』

最初に読むべきは『倫理学の話』だ。2015年11月に発売された新しい本で、かなり意欲的な構成になっている。倫理学者が書いていて、記述が平易で、辞書的に使える。功利主義など伝統的な議論はもちろん、ロールズ、リバタリアニズム、「NHK ハーバード白熱教室」に出演していたサンデル教授のコミュタリアン、そしてデリダまでが──普通の話をしているように──紹介されている。ヨナスは名前を初めて聞いた。アマルティア・センは無いが、この本を読んでおけば古典的な議論が抜けた状態で、流行り物に飛びつく事は無くなると思う。少なくとも15章までは、大学の講義でカバーする範囲だからよく読んでおくべきであろうし、倫理学者の評によると特に注意深く書かれているそうだからよく読む価値がある。

この一冊を読んだだけで、「リベラル」が好んで議論するリバタリアニズム対リベラルと言う米国風の対立軸が、日本の現状にあっているのか疑わしい事が分かると思う。リバタリアニズムの倫理は、ノージックの権原理論で整理されるが、獲得原理・移転原理・匡正原理の三つから分配の倫理を演繹するので、帰結は全く気にしていない。日本では新自由主義者と見られる人々でさえ、経済成長で全体のパイが大きくなり、貧困層にもトリクルダウンで恩恵があると、帰結を気にしている。原理主義的なリバタリアンを見かける事はほとんど無いと思う。逆に日本の「リベラル」は、帰結を全く気にしない教条的な傾向がある。つまり、主張に対して倫理学的な理屈付けは行われない。欧米のリベラルでも社会運動をしている人々は、往々にしてそういう傾向はあるようだが。何はともあれ、漠然と自分は「リベラル」と思っている人は、この本で紹介される誰の考え方に近いか考えてみると、自分の持つ倫理観が明確になって主義主張を言語化しやすくなると思う。また、自分が批判している人々が、どのような倫理観を持っているのか、整理しやすくなると思う。

2.『幸せのための経済学』

次に読むべきは『幸せのための経済学』だ。ドン・キホーテのように、藁人形論法で経済学を批判している「リベラル」は多いが、その誤解を解いてくれる。厚生経済学者が書いていて、効率性、無羨望、(事前的な機会の)公平性、(事後的な結果の)衡平性、機能、潜在能力(ケイパビリティ)と言った分配に関わる概念が説明されている。単語の意味だけではなくて、着眼点も知る事ができる。効率性と無羨望の二つの厚生基準を持つと、評価が循環して優劣が定まらない場合があることなどが覚えられる。効率性と共存できるPS福祉指標と言う聞きなれないものもあって、機能の集合として表される潜在能力での衡平性基準の一つの方法になる*1から、特にケイパビリティ・アプローチに言及したい「リベラル」は読んでおいて損は無い。

3. 自己破壊になる可能性もある

リベラルの倫理と言うと、ロールズの正議論がまず挙げられるし、センのケイパビリティ・アプローチも人気だが、他の倫理を持っていてもリベラルになりうる。功利主義者のシンガーも自分がリベラルと言っている。そして技術的な問題を抱えているとは言え、「リベラル」の大抵の主張は古典的な、例えば功利主義者の議論で正統化することができる*2。主義主張を倫理学的に正統化する必要はあるが、素朴な議論で問題があるとは限らない。マーフィーとネーゲルの「税と正義」では、一つの倫理ではなく、複数の帰結主義の倫理によって主張を正統化していた。

大事な事は流行っているものを採用する事よりも、採用した倫理で「リベラル」の主張が全て上手く正当化されるか良く考える事だ。中には、否定するしかないものや、実証的な議論に依存していて結論を支持できないものもあるかも知れない*3。逆に論敵の「保守」の人々の主張が、採用した倫理で上手く正当化されるケースさえありえる。摘み食い的に倫理学的基礎を置こうと思っている「リベラル」がもしいれば、自己の整合性の欠如に気づいて苦しむ可能性がある。それを恐れて倫理学的な基礎付けを避けられても、支離滅裂な事を言われている可能性が出てくるので困るのだが、それなりの覚悟で取り組んでもらいたい。

*1PS福祉指標には基準ベクトルが必要であり、基準ベクトルが変わると結論が変わるので、恣意性は功利主義と大差ないかも知れないことには注意されたい。

*2上で紹介した「幸せのための経済学」や「功利主義入門」で指摘されているので確認して欲しいが、社会全体の効用(≒快楽、幸福、望ましい選好が実現されている程度)の和を最大化するとして、(1)【効用の個人間比較不能性】主観的で観測不能に思える幸福を比較・合算できるのか、(2)【適応的選好の形成】貧乏に慣れて幸福に感じたり、贅沢に飽きて不幸に感じるような状況を無視してよいのか、(3)【愚かな選好】薬物や喫煙や飲酒などで快楽を得ることで、生き方が荒んでいく場合も社会改善と見なすべきか、疑問が生じてくる。ただし功利主義者は、幸福度を外から規定する事によって、これらの問題を回避できると考えているようだ。幸福度をどう規定するかが問題になるが、デレック・ボック『幸福の研究』では政治家に寄せられる陳情よりも信頼が置けるとしているし、ブータンの国民総幸福量のような調査方法に問題のある指標は困るわけだが、ノーベル賞経済学者ディートンも研究を行っているし、政策評価の一つの軸としては考えられるようになってきている。

*3ピーター・シンガーの『実践の倫理』を読むと、かなりの政治的議論に「リベラル」が好むような回答を出せる事がわかるが、他の点で「リベラル」は功利主義者の議論に違和感を感じるかも知れない。例えば、功利主義者は権利を本質的、つまりヘアの言う批判レベルでは絶対不可侵のものとして認めていない。例えば各自が幸福を増進させる手段として自由は認めるわけだが、自由を抑制することで幸福の総量が改善するのであれば不自由を認める。「リベラル」な運動家は、まず各種の権利を認めてしまい、それを当然のように声高に主張している。権利と権利がぶつかった時にどう調停すべきかなど問題が出てくるはずだが、それには十分、答えているようには思えない。

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