2015年11月30日月曜日

日本の反知性主義者

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安倍総理を批判する文筆家が使っているだけな気もするが、「反知性主義」と言う言葉が流行っているそうだ*1。一見して分かったような気になれる単語だが、その原典に近い意味は広く知られていない。翻訳家の山形浩生氏の説明によると、『浮き世離れしたなまっちろいエリートの机上の空論より、現実に根ざした一般庶民の身体感覚に根ざす直観こそが貴いという考え』と言うものだそうだ*2。さて、日本ではどのような人々が反知性主義者になるのであろうか。

もちろん一般大衆の中に、反知性主義を見出すことは可能であろう。異常があったら予報など信じずに避難せよと書かれた、桜島爆発記念碑(通称、科学不信の碑)と言うのがあるのだが、これが典型例になるであろう。愉快犯的に危険性を吹聴する人々を除けば、放射性物質への警戒心もこれに該当するであろう。非科学的だと否定したくなるが、知見が十分蓄積される前の段階の学問は、信じない方が結果が良いこともあるから、一概に否定はできない。奄美大島に放たれたマングースはハブを獲らなかった。

それでも十分な研究蓄積がある場合に、それを無視するのは得ではない。これだけの工業化社会で科学は無力だと全面否定する人は、よほどの変人だ。上述の科学不信の碑も、観測所の予測失敗と言う経験を元にしたもので、全く根拠の無い主張でもない。そういうわけで、21世紀現在、反知性主義者が活躍するのは、政治や経済などの社会科学や、倫理学などの人文科学が多くなる。俗に言う文系分野の研究成果を顧みない人々はネット界隈を見れば多くいるが、物理学に挑戦しようとする人々は少ない。

こういう状況を考えると、文系分野のエリート層が反知性主義者の挑戦を受けているように思えるが、そうではない。日本の反知性主義は、米国でのそれと異なり、一般大衆だけではなく、識者と呼ばれるエリート層の人々も担い手になっている。彼らには特色があって、つまり、おのれの身体感覚に根ざす直観に拠っているのに、何か学術的な根拠があるように思わせる癖がある。その偽装を分類すると、以下の三種類に整理できるであろう。

1. 用いている単語や理論を理解していない
「反知性主義」と言う単語もその例に入るのだが、識者と呼ばれる人々が自分の用いている単語の意味を理解しているとは限らない。フランス現代思想の水準まで乱用されれば滑稽なだけだが、経済理論を誤用し続けている経済評論家もいて、経済学への誤解を招き続けている。定理の仮定を確認するぐらい、しっかりして欲しいのだが。
2. 参照している統計の意味を理解できていない
驚くべきことに、因果と相関の見分けがつかない識者は少なくない。相関関係を示すデータを並べて、因果関係を当然のように主張する社会学者もいた。例外的な事例を過剰に強調する人々は、統計的過誤を知らないのであろう。全く因果関係が無くても、時や場所を変えて何十と計量分析を行えば、偶然により第一種の誤り、つまり偽陽性が得られる。
3. 倫理的基礎が欠落しており、判断に一貫性が無い
一貫性が無くなっている識者は良くいる。イルカは賢いから食肉にするなと批判しておきながら、牛や豚の知能には配慮しない動物愛護団体の活動家がその代表例だ。自分の意見が少数派のときは民主主義の限界を叫び、自分の意見が多数派のときは民主主義の絶対性を主張するようなブーメラン型もある。

以上の(1)、(2)、(3)に当てはまる“学者”を含む識者は少なくない。偽装はしているが、結局は反知性主義者なわけだ。例えば、教条的に主張を繰り返す社会学者の類は多いが、その倫理的基礎が明らかにされる事は少ない。多文化主義について議論している社会学者に、多文化主義を推進する正当性を訊いても、何も答えは返ってこないであろう。多文化主義が望ましいと宗教的に信じているからだ。安倍総理*3を反知性主義者と批判する左翼知識人も、反知性主義と言う単語の意味を理解していないので、反知性主義者に含まれる。

*1日本で盛り上がる「反知性主義」論争への違和感 | 冷泉彰彦 | コラム&ブログ | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

*2反知性主義3 Part 2: 内田編『日本の反知性主義』:白井聡の文は、無内容な同義反復。他の文は主に形ばかりのおつきあい。 - 山形浩生の「経済のトリセツ」

*3安倍総理は非主流派言えども学識経験者からの意見を参考にしており、自分の直観だけに基づいて決断を下しているとは言えない。また、知識の欠如があるかも知れないが、それだけでは反知性主義者とは言えない。そんな定義をしたら、万人が反知性主義者になってしまう。

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