2014年7月29日火曜日

なぜ人を殺してはいけないのかを説明しても

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「なぜ人を殺してはいけないのか?」の疑問には誰も答えられない』と言うエントリーが人気になっていた。膨大なコメントがついており、倫理学者では無い人々がどう考えているのかが分かって興味深い。しかし、続くエントリーで倫理教育で殺人防止と言う議論に展開していくのに疑問を感じた。社会が殺人を許さない理由を考えても、殺人が許されない内在的な理由を考えても、それを熱心に子供に教え込んで犯罪防止につなげるのには無理があるからだ。

1. 社会契約的に殺人を否定する

社会が殺人を許さない理由を考えると、社会契約説に突き当たる。端的に、誰かに殺されたくないから、誰かを殺すのは禁止にしましょうと言う、社会的な合意があると考えればいい。コメントでもこの考え方が多いようだ。これで考えておけば、条件付殺人を肯定しやすい利点もある。理由なき殺人は普遍的に禁止される一方で、戦争だろうが、決闘だろうが、制裁だろうが、何らかの理由をつければ許されることは良くある。しかし、この立場では人種差別や性差別、児童虐待、動物虐待を否定するのが難しくなる。立場が異なる人の生存権を尊重しても、自分の生存権が強化されるわけではない。

2. 倫理的に殺人を否定する

殺人が許されない内在的な理由を考えた方が、説明しやすいかも知れない。例えば功利主義的に考えて、誰かを殺したら、誰かの幸せが減るので、それは社会全体にマイナスだと考える。しかし支配者が殺人罪を制定する理由としては良いのかも知れないが、一般市民が他人の幸せを考える義理があるのか良く分からないと思うかも知れない。また、誰かを殺したら多数が幸せになる場合、殺人を禁止する理由が無くなりそうだ。戦争や処刑が正当化されるので、都合が良いとも言えるが。

他にも人間や動物には自然の生存権があると考えてしまえば、各種の差別や虐待を否定するのは容易になるはずだ。さらに条件付殺人を肯定できないと現在の社会を否定しまうので、価値ある将来を奪うことが問題だと考える剥奪説、それを精緻化した時点相対的利益説などを引っ張ってくる方が、説得力のある議論になるであろう。コメントには少数だが、理屈ではないと言うものもあったので、この考え方の人もいるようだ。ただし、生存権が存在することが前提として置かれるので、我々は死にたくないと言う前提の社会契約よりは無理があるように思えるかも知れない。

3. 倫理教育で殺人防止はできるのか?

問題エントリーのブログ主は次のエントリーで、経済学、政治学、ゲーム理論がその説明になり、その教育が犯罪防止になると考えたようだから、社会契約に終着したようだ。しかし、それで人を殺してはいけないと説明しても、ルールが出来た理由を説明するに過ぎず、ルールを守るべき理由を説明しない。社会的制裁を恐れない*1、完全犯罪が可能な人の、殺人を止める事はできない。また、「自然の生存権」を説明しても、それが受け入れない人には無意味であろう。どちらの方向で論理を組み立てていっても、前提条件に納得してくれる人でないと、説得はできない。教育に犯罪防止の効果があることは否定しないが、殺人のように良く知られた罪に関して、現在行われている以上の教育に意味があるように思えない。

*1自暴自棄な人や、感情的になって我を忘れる人は、少なくとも犯行時に社会的制裁を恐れないであろう。

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