2015年10月29日木曜日

「多数決を疑う」を疑う

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世の中、多数決など投票で物事を決めることは多いが、様々な投票がどういう癖を持つのか、詳しく考えた事のある人は少ないと思う。しかし、経済学の中には社会選択論と言う分野があり、そういう事を延々と考えている研究者がいる。ネット界隈の経済学徒の間で話題の新書、慶應大学の坂井豊貴氏の「多数決を疑う」は、一般向けに社会選択論の知見を紹介しつつ、さりげなく著者の政治観を世に問う意欲作で、民主主義云々と語りたい人にはお勧めできる一冊である。しかし、疑って読むべきところも多少あった。

1. 本書の概要

単純多数決だけが投票ではなく、決選投票を行う制度にしたり、選択肢に点数をつけるて合計するものなど種類がある。様々な意見の集約ルールがあるわけだが、方式が違えば結果も違ってくる。マルケヴィッチの反例を見ると、代表的な五つの集約ルール全てが違う結果を出す。どの集約ルールを選ぶべきなのであろうか。ルールによって、コンドルセのパラドックス、クローン問題、棄権のパラドックスなどの問題が入る。本書では集約ルールの評価基準を解説した上で、ボルダ・ルールとコンドルセ・ヤングの最尤法が、強力な手法であることを紹介する。これらを考慮しないで多数決を安易に採用するのは、文化的奇習だそうだ。

ただし、この二つの手法が銀の弾丸ではないことは証明されている。よく参照されるアローの不可能性定理で示される、二項独立性(IIA)が満たされない問題は、大きな問題ではないかも知れない。しかし、ギバード・サタスウェイトの不可能性定理が示すように、選択肢に単峰性*1がないときには、中位投票者定理が使えないので、戦略投票行動を排除できない事は、大きな問題を引き起こしうる。実際の選択肢は多様な事が多く、単峰性を満たすことは必ずしも期待できない。しかし、本書は熟議によって選択肢が一次元に整理され、単峰性が得られるメタ合意が生じると言う実証研究を研究を紹介する。

議論は社会選択論の教科書的な範囲に留まらず、民主主義の政治において投票が有効に機能する範囲も議論していく。その中心に置かれるのは、ルソーの社会契約論だ。そこでは、人々は熟議によって一般意志への適否、つまり己の利益ではなく社会規範に照らし合わせて投票すべきとされる。逆に言うと、この投票の前提が満たされない場合は、投票は機能しない。ゆえに特に重要事項において、多数派が一般意志から離れて己の利益の追求に走らないように、憲法や二院制、そして過半数よりも多い表決数などの策が取られている。

この観点から、現在の代表民主制は理想的とは言いがたい。代議制には直接と代表で結果が異なるオストロゴルスキーのパラドックスがあり、一般意志を反映しているとは限らないからだ。二大政党制はペア勝者に誘導するのでこの問題を緩和するが、第三の候補が出ることもあり常に成立はしない。公共財の供給を考えると、事態はより深刻だ。議会が行政などを良く監視しているとは言いがたく、一般意志が反映されているとは言えない。また、一部の人々だけが利害を持つ特殊利益になるため、住民投票などで一般意志への適否によって判断するのも困難となる。どうすれば良いのであろうか。著者は投票ではなくクラーク機構などのメカニズムデザインを駆使することを推奨する。

前半の社会的選択論に基づく投票ルールの選択と、後半のメカニズムデザインの駆使による公共投資の決定は、まとめれば実社会における公共経済学の知見の応用を主張している。著者は公共経済学を現実に生かすことにより、「民主的と称される制度を、実質的に民主化していく」べきだと主張している。新書なのでそう厚い本ではないが、社会的選択理論の紹介から、民主制度のあり方まで議論された。

2. 出てきた疑問

政治に関する議論の部分は、かなり著者の色が出ているためか、たぶん粗い。ルソーの言う一般意志の反映こそが、あるべき民主主義なのかと言う根本部分が気になるのだが、ここは知識的に論評しかねるので、他に気づいたところを挙げて行きたい。

「自由や権利の侵害に関する事柄、例えば少数民族の排除や性的少数派の抑圧を、投票で決めることはできない」(P.81)とあるのだが、誰がどうやって自由や権利の範囲を定めるのかすら分からなくなる。この後を読み進めると全会一致などが対策として挙げられているので、投票と言うよりは過半数程度の表決数では、多数派の横暴を防げないと言う事であろうが。しかし、鋭い対立がある事柄で、全会一致に近い表決数が得られる事は無いであろう。熟議を重ねて、対立は解消される必要がある。著者の言うように自由や権利の侵害に関する事柄が熟議的理性を働かせることが出来ないとして、著者が挙げるようにそれに全会一致などの過半数よりも多い表決数を要求すると、議論は空転し続けて何も決定できなくなる。これが望ましい状態だとは思えない。熟議不能だからではなく、熟議可能だからこそ、全会一致を要求できるわけだ。熟議不能だからではなくて、熟議が必要だからこそ、より多い表決数を要求するのでは無いであろうか。空論だと思うかも知れないが、ローマ法皇の選出方法であるコンクラーベは熟議どころか熟考だけで実現される全会一致だし、歴史上は他にも、中世のプロテスタントのコミュニティ、室町幕府の合議など、多々見られる。

クラーク機構に関しても、投票コストや情報生産コストが無視されている*2事は指摘するのは野暮なので置くにしろ、往々にして公共財の供給は将来世代も関わる問題である一方、将来世代は何も意志表明できない事に留意する必要がある。まだ産まれていない子どもたちは、メカニズムデザインに組み込めない。現在世代が子孫のことを考慮して、払ってもよい金額を申告すべきなのかも知れないが。また、身体障害者など少数の人々のための設備はクラーク機構で十分に提供されるのであろうか。身体障害者が払っても良いと思う金額を合算しても、設備の設置には十分では無い事が予想される。すると、身体障害者は引きこもることになり、その効用水準は低いままになる。これは功利主義でもロールズ主義でも、望ましい結果にならない。それとも別の法律で身体障害者への配慮を義務付け、メカニズムデザインで選ぶときは最初から配慮されていることにするのであろうか。

他にも細かい部分で気になるところはある。小平都市計画道路3・2・8号線建設問題では市長や市議会や都議会の存在は忘れ去られている気がするし、ルワンダ虐殺の話は選挙や住民投票の結果として選択されたものではないし、ツチ族だけではなくフツ穏健派も殺されているので、本書の議論に馴染まないように感じる。もっと瑣末的な部分では、64%多数決ルールの説明で一般用語とは言えない「凸多様体」について説明もなしに言及する必要があったのか疑問だった。なお、本当にどうでも良い部分で編集のミスになると思うが、本文で明確に言及があるのに、主要参考文献からCaplin and Nalebuff(1988)が漏れていた。

3. まとめ

社会選択論は数学的に証明を追いかけながら勉強する分野*3なので、学ぶには大きな労力が要り、気軽には手を出しづらい面がある。平易に知見を紹介してくれる本書は、一般の非研究者のみならず、社会選択論を研究していない学者にも、有難い本になっていると思う。しかも、社会選択論の枠に留まらず、あるべき民主主義にまで議論が広がる意欲作で興味深い。そういう意味で、何かしら政治に興味がある人にはお勧めなのだが、新書と言うこともあり完璧な論証が展開されていない事には注意を払う必要がある。しっかりした政治学者に、特に第3章、第5章を批判的に検証して欲しい。なかなかそんな暇は無いであろうけれども。ところで、題名がかっこいいと思います。

*1単峰性とは、大、中、小のように選択肢が一次元に並べることができるとき、大の次に小を好むような、飛び飛びの選好を持たない事を示す。

*2近所の道路工事に自分は幾ら払うべきか考えられる人は少数であろう。そもそも都市工学の知識が無ければその意義が分からず、自分に関係がある工事かすら判別がつかないことが多いように思える。

*3田中(2005)「社会的選択理論の諸相」を参照。

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