2017年11月10日金曜日

大学進学率を上げる社会的意義は小さいかも知れない

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開発援助畑の畠山勝太氏の「大学生は多過ぎるのか、大学に行く価値はないのか?」と言うエッセイが流れて来たのだが、読んでいて気になったところがあるので指摘したい。

畠山氏は、大学教育への公的支出を、大学教育は労働生産性を改善する人的資本蓄積効果が大きく、改善しないシグナリング(スクリーニング)効果は小さいとした上で、社会的利益(外部経済)と流動性制約や保護者の無理解による過少教育投資の存在から、「経済発展のための人的資本投資」として正当化できると主張しているのだが、その証拠になる統計を示せていない。

1. 人的資本蓄積効果とシグナリング効果の識別

畠山氏も書いているが、人的資本蓄積効果とシグナリング効果の識別は技術的に困難で、人的資本だと断言するのは難しい。教育開発の文脈では人的資本仮説に傾斜しがちなのではあるが、不勉強なのか今まで説得力のある分析を見たことは無い。

  1. シグナリング効果とは、地頭のよさをアピールするために大学を使う現象を指す。大学教育と年収の関係を見ている論文では、結局、地頭の良い人は進学率が高くなるので、地頭と教育効果の違いを上手く識別できない。前に畠山氏が言及していたOno(2008)が、この問題を抱える*1
  2. シグナリング効果が大きければ計量分析で推定される外部効果は負になると言う説明も、Lange and Topel (2006)などであるのだが、よくある都市間比較の分析の場合は労働移動があるのでそうとも限らなくなる*2。しかも、1980年代は強い正の相関があったわけだが、1990年代はそうではなくなったと言う話も(Sand (2013))。
  3. あるクロスカントリー分析(Hall and Jones (1999))を見ると、マクロの学歴が労働生産性に与える影響は限定的だ。高学歴化が労働生産性を改善するとすると、資本と学歴の影響を除外した技術の労働生産性への説明力は小さくなるはずだが、実際は圧倒的だ。教育がまったくマクロ経済に貢献しないわけがないのだが、人的資本の蓄積よりも就業シグナリングとして使われている部分が大きいので、教育が労働生産性を引き上げる程度が小さいのかも知れない。

畠山氏が加えている説明は「スクリーニングが本人の能力だけではなく家計の資本制約によっても起こってしまっており、シグナリング仮説の影響力は人的資本論よりも限定的」と言うものだが、流動性制約は人的資本蓄積効果があっても排除できない。人的資本蓄積効果でもシグナリング効果でも生涯賃金は増えるわけで、「現在の日本では教育サービスが無償ではないために・・・スクリーニング仮説の影響力は人的資本論よりも限定的」とは言えない。なお、日本の学費は米国よりずっと安いし低金利の奨学金があるのだが、無視されているところも気になった。

2. 社会的便益の大きさが示せていない

仮に人的資本蓄積効果が大きいとしても、社会的便益が私的便益を超えない限りは大学教育への公的支出は正当化できない。しかし、大学教育の私的便益をもとに議論を展開しているので、全く示せていない。せめて他の文献を引用するなりして欲しい。

「同じ資金制約の下であってもより最適な消費行動を選択できるようになる能力・健康管理能力の差がもたらす医療費の差、犯罪関与率の減少による直接的/間接的コストの減少、より効果的な民主主義の実施…」も同様。この辺は色々と研究があると思われる。

3. 過少教育投資の存在を示せていない

これは繰り返しかつ、研究可能性の問題から意地悪な指摘なのだが、過少教育投資の存在を厳密には示せていない。「大学教育の収益率は市場金利よりも高い」ことから過少教育投資があると言う主張だが、名門大学の医学部等を含んだ平均収益であって、弱小私大の文系学部のように収益性の低い限界部分で評価していない。不要と言われているのは医歯薬看工の学部ではなくて、私大文系である。せめて私大文系、可能ならば非名門で評価すべきであろう。

4. その他の細かい点

「教育のベネフィットは低学力層の子どもで大きいことが近年確認されつつある」「これまでのこの分野の研究結果を見ると」は良いのだが、小中高ではなくて大学の話になっているか確認したいので、文献を挙げて欲しい。高校卒業後、専門学校に行く人も2割程度いるのを無視して「現状のように国民の半数を高卒のままにしておく」と書いてあるのが気になる。労働生産性の向上はしている*3ので「失われた20年と形容され経済が発展しなかった近年の日本」とキャッチーな言説を踏襲して書くのはどうかと思う。「スクリーニング仮説は・・・Handbook of the Economics of Educationに至っては取り扱ってすらいない」は勘違いで、Lange and Topel (2006)で畠山氏が言いたいような論調で言及がある。

5. まとめ

畠山勝太氏は5年前にも同様のエントリーを書いていて*4・・・と思ったのだが、日付を確認したら2012年。たぶん同じエントリーだった。久しぶりに読み返すことになったが、やはり大学教育への素朴な信仰の告白の粋を出ていない。何はともあれ、技術的に決着をつけるのに難しい議論ではあるが、何かしら計量的な方法で社会的便益の大きさを測る必要がある。

そこまですべきなのは、大学で獲得した知識を使わないで日常業務をこなしている人が大半と言う現実があるからだ。この世には文学部卒の半導体エンジニアですら存在する*5わけで、かなりの企業人事が大学の成績などを重視しないで採用を行なっているのは周知の事実である。大学教育は役に立たないと漠然と思われているわけで、すべての大学教育が労働生産性を伸ばすような議論に説得力を持たすためには、強い証拠が必要になる。

追記(2017/11/10 20:26):コメント欄を見て、2012年のエントリーだったと気づいて、最後の部分を修正した。

*1関連記事:大学教育と年収に関するある論文について

*2簡単なシミュレーションで、労働市場シグナリング仮説だけが成立していても、計量分析で推定される外部効果は負になるとは限らない事を確認することができる。

*3以下を参照。話の枕も許さない揚げ足とりがネットの文化と言うことで。

*4関連記事:その教育便益の計算方法は適切?

*5朝日新聞デジタル:(凄腕つとめにん)集積回路に描く配線 7万本 - 就活応援

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