2020年9月7日月曜日

ツイフェミにとっても、表現の自由戦士にとっても、不正義の説明は骨が折れる

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ネット論客の青識亜論氏が「「萌え絵批判」はなぜ燃えるのか――私たちが怒る本当の理由」と言うエントリーを書いているのだが、議論の核心部分に混乱が見られるので指摘したい。ツイフェミの議論の多くが本音を隠して話がおかしくなっている気がするが、表現の自由戦士も主張の正当化には苦労している。

「萌え表現を不当な理由で潰されるのは、公共的な正義に反する」と主張しているが、不当だから不正義だと言うのはトートロジーと言うか循環論法と言う誤謬推理でしかない。何を不当とするかが核心になる。何を公正とするかと言ってもよい。冒頭で例示された事例では「無茶苦茶な決めつけ」と、ツイフェミの非難は事実誤認だから不当と言う話にはなっているが、何者も事実に基づいて批判を行うべしという道徳律をとるという事であろうか?

この道徳律は、ロールズの正義論でも、カントの義務倫理でも正当化されうる。何かを誤認して批判してしまったときの罪の程度は問題になりそうだが。嘘を並べ立てて主張を通そうという卓越者は考えづらいので、徳倫理でも正当化されうる。一般に虚偽に基づいた議論が行き着く先は社会の幸福の総量を下げるであろうから、規則功利主義でも支持される。しかし、続く議論はこの道徳律に沿っていない。

マンガ/アニメ/ゲームの愛好家であるオタクへの社会的地位の向上の話、不本意の禁欲主義者(incel)がマンガ/アニメ/ゲームで救われるという話がされているのだが、事実に基づかない主張が不正義だからツイフェミ主張が問題だとすると、オタクの境遇は正義の是非には関係無くなる冗長な話だ。オタクの社会的地位の向上や人生の充足、マンガ/アニメ/ゲームの文化的地位の向上を指摘したいと言うことは、オタク文化がもたらす利益(もしくは効用)がツイフェミが指摘する不利益よりも大きいことを物事の是非を定める基準としてしまっており、つまり公正性以外の別の道徳律を導入している。義務ではなく、帰結を問題にしてしまっている自分を自覚しよう。ツイフェミと表現の自由戦士の言い争いを「お気持ちvsお気持ち」であると認めていたが、「お気持ち」によって物事の是非を決めるのは、ロールズなどの公正性に基づく議論とは言えない。オタクの効用(≒お気持ち)とツイフェミの効用(≒お気持ち)の戦いとするならば、快楽功利主義か何かを導入せざるをえない。

最後では「反転可能性テスト」が言及されるので、ロールズの正義論に基づく戻っているのだが、ツイフェミ主張も簡単に「反転可能性テスト」をパスするように普遍化できるので、ここの部分だけではツイフェミ批判としては不十分だ。何者も萌え絵を描いたり貼ったりするなと言う主張には、普遍化可能性がある。また、「等しきものは等しく扱え」をテストするわけで、男女やメディア上の女性と街を行く女性に社会的立場の違いを認めてしまったら、単純に反転できなくても公正性は満たされる。青識亜論氏は、氏の考えをサポートしない道具を振り回している。禁欲主義者のカント*1を持ち出していない分、以前よりマシかも知れないが。

ツイフェミがいい加減な理屈と誤った用語理解で萌え絵などを非難しだすのをずっと批判してきた*2 が、表現の自由戦士の議論にも混乱がある。この世に哲学者と言う存在がいるぐらいなわけで、この辺の議論をきっちり整理するのは骨が折れるわけだが、萌え絵に纏わる議論に限ればそうでもないかも知れないので頑張って欲しい。

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