2017年6月20日火曜日

人々が実際に持つ倫理を考える『モラルの起源』

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倫理学と言えば、特定の倫理や道徳が持つ特徴や欠点を考えたり、特定の倫理や道徳から考えて物事の是非を考えたりと、規範的な議論がされる事が多い。遡れば、利己心から説明できるとしたホッブズや、共感にもとづくとしたヒュームなどの議論もあるわけだが、当時は研究手法が洗練されておらず、倫理や道徳の由来はあれこれ想像するしかなかった。最近は、社会人文科学でも実験が一般化したこともあり、実証的な研究も進んでいるようだ。『モラルの起源』は生物学や心理学の知見から、人々が実際に持っている倫理や道徳がどのようなモノかを紹介した本だ。

1. 本書のあらまし

本書ではヒトは集団生活をする動物で、協力関係を形成する方がよりよい環境適応になることから、ヒトに倫理や道徳が備わったと仮定して議論が展開されていく。生物学的な淘汰による進化・適応ではなく、文化や社会の進化・適応を念頭に置いているようだが、この断りが本書の議論全体に与える影響は良く分からなかった。

大脳新皮質のサイズから考えると、ヒトは150人ぐらいの群れで生活し、個体間で戦術的な騙しがある動物だと進化生物学では考えていて、これは現生人類のもともとの生態である狩猟採取民が100人前後の血縁・地縁関係に基づく自然な社会集団を形成していたと言う人類学の知見と整合的になる。

血縁だけで群れを作る昆虫と比較すると、非血縁者とも社会を作るヒトは個体の利益を優先するので、ヒトの群れの利益になる行動、つまり規範や道徳は、ヒトの個体の利益(もしくは効用)で説明できないといけない。また、他の動物にも見られる個体間で恩を返しあう互恵的利他主義だけでは、共有地の悲劇のように規範や道徳が機能しない状況もある。

ヒトに内在する、規範を守り道徳的に振舞うための仕掛けが、実験によって確かめられている。

  • 他者に非協力的な個体に喜んで制裁を加える習性が備わっており、逆に制裁を避けるべく他者の目を気にするようになっている。さらに、ゴシップや噂話などによる評判もあり、個体間の関係に留まらない間接互恵性も持つ。ヒトが罰を与えることから快楽を得る性質は、規範破りが制裁を招く可能性を大きく高める。
  • 動物にもある(オキシトシンの分泌による)自他融合的な情緒的共感により、他者の苦痛を体感するだけではなく、自分とは異なる他者の境遇を理解した上で他者の苦痛を体感できる、自他分離的な認知的共感も備わっている。情緒的共感は小さい社会でしか機能しないが、認知的共感は大きな社会でも機能しうる。共感は、道徳的な振る舞いをもたらす。

実際のよく知られた倫理と、人々が持つ倫理はどの程度一致するのであろうか。最後通牒ゲームの実験からは、商習慣の程度から人々の持つ分配の規範は文化によって異なるそうだが、著者が実験した結果からすると、最も悪い境遇の程度が気になる人が多く、これはロールズの正義論と合致した傾向になるようだ。

2. 功利主義に限界効用逓減の法則が無い謎

さて、この本の著者、恐らく功利主義について激しく勘違いをしている。社会全体の富や消費の最大化するのではなく、社会全体の効用の和を最大化するのが功利主義。限界効用逓減の法則があるので、社会全体の富や消費が最大化されなくても、より平等な分配で効用の和が最大化されるような分配は十分あり得るが、どうも著者は消費と効用が正比例すると考えているようだ。

p.122に例として設定されている状況だが、災害援助で全員に600Kgの食料を配るのと、7割の人に1000Kgの食料を配るのを比較して、後者の方が望ましいとは言い難い。全員に600Kgを分配しても全員餓死するような一方で、7割に1000Kgを分配すると7割が生き残れるような仮定が要る。

最後の方に出てくる倫理の適用にあたっての「手動モード」「自動モード」の違いなどは、功利主義者もヘアの二層理論として議論している事を知らないか無視している気がするし、全般的に倫理学方面が弱い感じになっている。著者の亀田氏は心理学者なので仕方が無いのかも知れないし、私も実際のところ「倫理学の話」に書いてあることぐらいしか知らないわけだが。

3. 実証研究から規範的議論へ

心理学的な実験をやる規範的な意義について、議論されていないので考えてみた。

まず、実際に人々が従っている倫理や道徳は、哲学者が整理した倫理や道徳とはちょっと違う。理屈の上では無矛盾な規範を考えても、人々がそれを受け入れる事ができるとは限らない。実証的な知見で確固としたものがあれば、応用倫理になるのであろうが、規範的な議論でも取り入れるべきであろう。

次に、理論的な閉塞の打開につながる可能性もある。社会選択論は、多様すぎる倫理や道徳を想定すると、リベラル・パラドックスのような不可能性定理が出てきて、どん詰まりになることを示している。実証的な知見をもとに、許される倫理や道徳の範囲を絞ることができれば、考えるのも面倒な不可能性定理を無視することができる・・・かも知れない。

著者の今後の研究における、人間不信になるような、あっと驚く実験結果を期待したい。

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