2017年5月24日水曜日

ポストモダンはその修辞法と共に消えるべき

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物理学者のアラン・ソーカルがフランス現代思想における数学・科学用語の濫用を荒っぽい方法で批判した後、ポストモダン界隈の仲正昌樹氏がソーカルの批判は枝葉末節で本質的ではないと、ソーカル事件からポストモダン批判をする人々を批判しているそうだ。これに関して批評家の山川賢一氏が、仲正氏のポストモダン擁護を批判している*1

このやり取りに関してツイートはしたものの、このブログではスルーするつもりだったのだが、仲正氏からメールを貰い、その中で「あなたは前にも山川に同調して、私を攻撃するようなツイートしていませんでしたか?私に個人的怨みでもあるのですか」と、批判を個人攻撃に捉えるアカデミアにあるまじきメッセージを貰ったので、改めて批判しておきたい。

1. ラカンの文章の説明について

ソーカルの著作『「知」の欺瞞』に、著名ポストモダン作家ラカンの『私が「無理数=不合理」と言うとき、何も私はある種の測り知れない情動の状態を指しているのではなく、正確に虚数といわれているものを指しているのです』と言う台詞を批判した部分がある。この台詞は中高までの数学の知識で意味不明さが十分分かるので、ポストモダン批判ではよく取り上げられる。

しかし仲正昌樹氏曰く「ラカンが虚数と無理数を混同しているというのは、ソーカルとブリクモンの早急な決め付け」だそうだ*2。上述部分に該当するフランス語原文を挙げて、

  1. irrationnelは名詞の無理数ではなく、形容詞の不合理に過ぎない
  2. 「正確に虚数といわれているもの」の「正確」(precisely)に該当する部分が原文にない

から、おかしい英訳に基づく誤解だと主張している。しかし、フランス語が全く分からない人にでも、この話が変なことが分かる。「無理数=不合理」に該当する部分を恣意的に省いているし、引用されているフランス語原文の中の単語もあれこれ無視されている。

…c’est en tant que la vie humaine pourrait se définir comme un calcul dont le zéro serait irrationnel. Cette formule n’est qu’une métaphore mathématique et il faut donner ici à l’irrationnel son sens mathématique. Je ne fais pas ici allusion à je ne sais quel affectif insondable, mais à quelque chose qui se manifeste à l’intérieur même des mathématiques sous la forme équivalente de ce qu’on appelle un nombre imaginaire qui est √-1.

l’irrationnelは定冠詞つきなので、名詞としか考えられない。「単に比ゆ的な意味合いで、〈irrationnel〉という形容詞を使っている」と言う仲正氏の説明は明らかにおかしい。さらに「数学的な意味」(son sens mathématique)をl’irrationnelに与えなければいけないと書いてあるように読める。これが無理数でなければ、何なのであろうか。なお、仲正昌樹氏はメールで「Irrationnelは二回出てきて、二回目は定冠詞付きですが、これは形容詞を名詞化したもなので、両方とも形容詞扱いしました」と説明してきたが、これ自体も意味不明な主張な上に、son sens mathématiqueについては言及していない。

manifeste à l’intérieur même des mathématiquesは、数学それ自体の範囲での宣言、つまり厳密に数学的な意味と言う意味のようだ。ソフトウェアの世界では作成者や利用権限などを示す設定の意味でよく使われるmanifestだが、英語ではその用法は一般的とは言えないので、直訳になる to something that Manifest within the mathematics itself を意訳して precisely to ~ と置き換えても不思議ではない。仲正昌樹氏は『manifeste à は、文の流れからして refer preciselyのところとは関係ありませんし、「正確に」という意味はありません』とメールで説明して来たのだが、manifesteをどう訳すべきかについては何も言及していない。

仲正氏は「フランス語を読めるはずの山川は、よもやこの程度のフランス語が理解できないとは言わないだろう」と引用部の全訳を避けているのだが、全訳をつけたらソーカルが参照した英文と全く同じ意味になるのでは無いであろうか。メールであれこれ説明する暇があるのであれば、まずは自身が信じる全訳をブログのエントリーの引用部分につけるべきであろう。フランス語が得意なのであれば、そう手間暇でもないはずだ。なお、メールの返信でまずは訳をつけることを要請したが、無視された。

エコール・ノルマル・シュペリウールに入学するのに中高の数学の知識が不要とも思えないので、ラカンに中高の数学の知識が無いとは思わない。しかし、徒然草にある「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」の一例にはなっている。

2. ポストモダンと言う修辞法は消えるべき

仲正昌樹氏の「私に個人的怨みでもあるのですか」と言う質問に答えておきたい。仲正氏に個人的な恨みはないと言うか、仲正氏についてはほとんど何も知らない。アカデミックな文章における数学・科学用語の濫用は避けるべきで、その結果としてポストモダンは無くなるであろうと考えている。

フランス現代思想史」を読む限り、ポストモダンは中身ではなく修辞テクニックによって特徴づけられる社会“思想”である*3。その証左に、山川賢一氏の批判を踏襲すれば、ソーカルによるその数学・科学用語の濫用と言う修辞テクニック批判の後も、数学・科学用語の濫用部分が残っており、仲正氏もゲーデルの不完全性定理の濫用を容認している。

もともとあった単語が数学・科学用語になる場合もある。数学・科学用語が一般化する場合もある。しかし、ポストモダンが濫用する多様体などの用語は、大半の人が定義も性質も知らないわけで、文章が意味を伝えるものである限り、読者を困惑させる以上の意味は無い*4。論理を伝える文章においては、邪魔にしかなっていない。また、理解しているのかも怪しい数学・科学用語の濫用を許容するということは、理解できていない事象に思いつきを並べ立てる姿勢を助長しているように思える。多様体は日本のポストモダン思想家に人気の数学用語だが、「多様体入門」を読み込んだ人が理解できる用法だとは思えない

あずまん、ソーカル事件の余波にもっと苦しもうよ」と言うエントリーにも書いたけども、フランス現代思想やそれが好きな人々は、他分野の議題を摘まみ食いしたがる一方で、他分野での議論の展開について無関心すぎるのではないであろうか。思想家とはそういうものだと言う主張もあるが、功利主義者のシンガーにしろ、コミュタリアンのサンデルにしろ、ポストモダンの思想家以外は色々と調べた上で議論をしている。数学・科学用語を使うのであれば、数学・科学用語の意味を背景知識を含めて理解する姿勢が欲しい。マンガやアニメーションなどの数学・科学用語はそういう雰囲気を作るための小道具なので、「シンクロ率が100%を超えるわけないだろボケ!」「ピカチューはライチュウに進化するんじゃねぇ、変態するんだ!」「スイングバイから慣性飛行に移るって、スイングバイも慣性飛行だろ?」と思って見る方がおかしいわけだが、アカデミックな文章であれば濫用するのがおかしいのは間違いない。

仲正昌樹氏は自身への批判を個人攻撃に捉えているので、精神的にアカデミアであることを止めている気もするが。

2 コメント:

ytb さんのコメント...

すみません、大変些末な点なんですが、哲学者の「多様体」と言う言葉の使い方は、幾何学における「多様体」とは別のモノだと思います。
哲学者にとっての「多様体」はフッサールにまで遡ると言われますが、そのネタ元であるカントールは “manifold”と言う言葉を “Menge” (quantity) や “Inbegriff” (collection)の同義語として使っていました。もちろん同時期に発達していた幾何学の多様体論とも関連はあるはずはあるはずです。ただしそれでもフッサールの場合は幾何学における多様体を直接言及している訳ではないと思われます。

uncorrelated さんのコメント...

>> ytb さん
別物と言うことなので、別定義が与えられているのかなと思って検索してみたのですが、ごっちゃに議論してきているようで、頭が痛くなりました: http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/6331/1/ibunka12_morimura.pdf

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