2016年2月3日水曜日

通信社の記者から見たインドネシア

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ちょっと古めの新書なのだが、『インドネシア―多民族国家という宿命』を拝読した。開発途上国の本と言うと、やはり地域研究者が書いたものが多い*1のだが、これは共同通信社の特派員が書いたもので、時事的な話題がつらつらと書いてある。全体を通したメッセージは明確ではないのだが、インドネシアは多民族国家でアチェ、東ティモール、パプアなどの民族紛争を抱えて来ており、またイスラム国家としてのあり方についての考えの相違などから、アルカイダ等が問題になる以前からイスラム過激派が存在しているので、まだ民族を超えたインドネシア人としてのエスニシティが十分に確立されていない主張したいようだ。

第1章にイスラム過激派の話が延々と書いてあって面食らったのだが、日本人はインドネシアに世俗主義的なイスラム国家と言う認識しか持っていないことが多いので、著者はその理解に日ごろから不満があるのであろう。スカルノら指導者層はナショナリストでイスラム教を国体の中心に置く事を避けたが、それに不満を持つイスラム勢力もいる。急進イスラム勢力は対オランダ独立運動まではナショナリストに協力関係的であったが、その後は世俗的な国家運営に反感を抱き、ダルル・イスラム(DI)運動と呼ばれる様々な武装蜂起やテロ活動が1949年から各所で引き起こされる。軍事的には国軍の方が優勢であるし、民主の支持も得られなかったようだが、最近のイスラム過激派のテロもDI運動で培われた人脈が関わっているそうだ。この人脈の間では、中東で軍事訓練を受ける教育課程が構築されているらしい。

民族主義的な独立運動にも、イスラム教の影響はあるようだ。第3章で詳しく述べられているのだが、2004年のスマトラ島沖地震まで大きな問題であった1963年に始まる自由アチェ運動(GAM)も、イスラム法に基づく自治権獲得を目的にしたDI運動の帰結に不満を持つ分子がはじめたそうだ。GAMは構成員の一部がリビアで軍事訓練を受けてから、本格的な武装闘争を開始した。オランダに征服される前のアチェ王国は、今のインドネシアの中でもイスラム教の影響が強い地域だったため、民族主義と原理主義が結びついたようだ。ただし、こちらも主義主張が民主の支持を集めたと言うより、国軍のアチェ住民への弾圧が反感を呼び問題が大きくなったと言うのが真相なようで(P.134--136)、イスラム過激派の思想の影響が強いかは良く分からない。またパプア(イラアンジャヤ)は1969年、東ティモールは1975年に軍事的に進攻した地域だそうだが、これらのイスラム教との関係は何も言及されていない。

第2章の「民主化の果実と代償」でスハルト大統領からユドヨノ大統領までの民主化プロセスが、第4章の「外交の舞台へ返り咲き」ではインドネシアの外交活動についても説明がされているし、第5章では今後の政治的課題として汚職やエネルギー問題、環境問題なども列挙されているのだが、民族紛争やテロに関する記述が重い。インドネシアの過激派を理解するためには良い本になっていると思うが、イスラム原理主義者がそう強い勢力ではなく、政府や国軍への不満が強い分離独立運動につながっている事などを考えると、全体のバランスはあまり良くない気もしなくもない。三百の民族、二百以上の言語があって、統一を維持するのが一苦労であって、まだインドネシア人としてのエスニシティが十分に確立されていないと言う著者の指摘*2は分かるのだが、詳しく書かれているイスラム過激派の存在とは別の要因が大きい気がする。手っ取り早く読めるインドネシア政治史であり勉強にはなるのだが、時事的な話題に引きずられているのでは無いか気になった。

*1そうは言ってもインドネシアに関しては元駐在員が出した本もある(「インドネシア駐在3000日」)し、バリエーションが無いわけではない。

*2最後に『その共通の輪郭がはっきりするまでには、まだしばらく、時間がかかるかもしれない』(P.248)とある。

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