2015年12月17日木曜日

自分で考えすぎた人の話――カント哲学入門

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哲学の世界には分野外の人にも知名度はとても高いが、その主張がほとんど知られていない偉人は多い。その代表を選ぶとしたら、やはりカントであろう。功利主義であればその主張の断片を、それが誤解されたものでも耳に挟むこともあるわけだが、カントを濫用する人は少ないと思う。それが帰結主義と対になる義務論の原典みたいなものであってもだ。難しすぎて誤解もできない。そんな途方に暮れた一般人のための、カント概説書が出ていた。『自分で考える勇気――カント哲学入門』だ。

岩波ジュニア新書なので中学生向きだが、カントに関する知識が小学生よりもあると自信を持って言える人はほとんどいないであろう。分野外から見れば、難易度は低ければ低いほど良い。しかし著者の御子柴善之氏は、間違いなくドイツ思想史のプロパー、カントの専門家で、内容が誤魔化されている可能性も低い。岩波ジュニア新書の編集方針から考えても、本書の品質は極めて高い部類に入るであろう。

第1章はカントの伝記になっており、昔のドイツ、今のロシアに住んでいた事などが紹介しつつ、続く章で順番に紹介されていく、カントの主要業績『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』、そして晩年の『人倫の形而上学』『諸学部の争い』がどのような時期に出てきたかが説明される。難解な書き物をしているのにキリスト教への挑戦になると権力者から阻害されていて驚いた。当時のプロイセンの政治家ヴェルナーは勉強熱心だったようだ。

カントが生涯をかけて挑戦したのは、道徳の構成であった。そのために生涯を通じて思考を続けていた。その手法は、様々な概念のカントなりの記述だ。本書には「自分で考える勇気」とあるが、カントなりに整理したと言う事であろう。他の人にも自分で道徳法則を考えろと主張しているが。なお主要業績は三批判書と呼ばれるが、ここでの批判は誰かの考えを非難しているわけではなく、分類を意味するそうだ(pp.19–20)。例えば、認知できるもの/できないものを分ける。

第2章からカント哲学の紹介に入る。『純粋理性批判』で概念を作り出して考える能力である悟性(知性)を、『実践理性批判』で推理し原理を求める能力である理性を導きだし、『判断力批判』で悟性と理性をつなぐ判断を整理して根源的な原理を導き出し、それに基づいて『人倫の形而上学』で現実社会への適応を試みた。こう書くと壮大かつ揺るぎの無い世界が出来上がっているように思える。しかし、本書はカントの議論に無理があるとは指摘していないが、カントの主張に説得される人は少数なのでは無いかと思う。

因果律について考えよう。全ての結果に原因があり、原因から自由な結果は無い。悪人が犯罪を起こしたときも、悪人の生い立ちや環境が悪いと言う原因がある。悪人に罪を犯さない自由はあったと言えるであろうか。自由が無いとすると、悪人に責任を問うことはできない。カントは(物理法則に従う)自然現象は因果律が支配するとする一方で、「物それ自体」はそうではないとした。「物それ自体」は自然現象をもとに人間が考え出すものだそうだ(pp.68—69)。つまり、カントによると人間の思考(認識)は因果律の外側にある。ゆえに、悪事はそれを企んだ悪人から始まっていると言えるので、悪人に罪を問える(p.72)。しかし、人間の思考も神経細胞とシナプスによる自然現象と考えると、因果律の外側にあると言うのは受け入れ難い。

定言命法についても考えよう。賞賛を得るためなどの目的を持た無い行為目的で、無条件に従うべきことがあるべき道徳法則となる(p.92)。義務論と言われるものだ。道徳法則は普遍性が要求されており、自分を例外化することは許されない(p.88)。個々が従う道徳法則は、個々が自分で考えるために、それぞれとなる(p.89)。また、他人の振舞いはともかく心は操作できない*1ので、自己の完全性だけを目的とする(p.185)。一見するとそれらしいのだが、応用しようとすると困った事が起きる。

第二次世界大戦中に、ユダヤ人の隠れ家を知っている「嘘をつかない」と言う道徳法則を持つ人が、ナチス親衛隊にユダヤ人が隠れていないか聞かれたとしよう。正直にユダヤ人の隠れ家を教えることが道徳的になるのだが、これは道徳的であろうか。他の道徳法則、例えば「弱者を守る」も持っていたらどうすれば良いであろうか。道徳法則が単純すぎたのかも知れない。「弱者を守るとき以外は、嘘をつかない」に修正してみよう。これを他のケースに当てはめる。困窮者が富豪から物品を盗んだのを目撃したときに、警察に証言をしないのは道徳的であろうか。さらに複雑化する必要が出て来そうだ。道徳法則は普遍的に適用されうるものだから、あらゆる状況に適応される可能性があるのだが、あらゆる状況に応じて複雑化すると、長すぎて把握できない道徳法則が出来上がる。把握できるように体系化すると、功利主義のような別の倫理を完全に踏襲する事態になっていたりしないであろうか。

他にも宗教的と言うか、個人主義的な道徳観念で、公共政策に応用を考えると判然としない所があるのだが、カントの専門家はどのように考えているのであろうか。使い道が良く分からない議論が展開されている印象を持たざるを得ない。本書の第5章で紹介される『永遠平和のために』では国際政治を論考しているわけだが、もう少し身近な所得分配や利権配分などで何か記述が残っていたら知りたい。本書にカントの研究の反響などが紹介されていたら、もう少し画期的なものであったことが理解しやすかったのだと思うが、不勉強な私には自分で考えすぎて変になった人の話に思えてくる(´・ω・`)ショボーン

*1「嘘をつかない」と言う道徳法則を、無条件に疑いも無く実行するのが最上善であって、罰せられるのを恐れたり、褒められたりするために実行するのはそうではない。賞罰で他人を律することによって最上善は得られないので、他者の完全性は目指せない。

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