2015年8月29日土曜日

あるマルクス経済学者のプロパガンダ(20) ─ 連載を通じて違和感があるところ

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マルクス経済学者の松尾匡氏の連載「リスク・責任・決定、そして自由!」の「最終回を読む前に――これまでのまとめ」を拝読した。今まで記載事実の正確性や、近経モデルの前提や解釈について突っ込んできたわけだが、今回は率直に感想を述べてみたい。近代経済学などの用語やモデルを摘まみ食いしつつ言葉をこねくり回しているだけで、まともに経済学の素養がある人を説得しようとする意欲に欠けている。プロパガンダとレッテルを貼っておいて言うのがはばかれるのだが、世間に誤解を生みそうなので専門用語やモデルをもっと丁寧に慎重に扱って欲しい。

今回の記事でも、今更変更できないのかも知れないが、金銭リスク以外のものをリスクと記述していた*1。直観的な言い回しではない。外生変数が定まれば均衡が一意に定まるモデルを複数均衡モデルのように言ってきているし、非パレート最適の非協力ゲームで戦略の組が少なくなると“自由”が増す事があるように言うのは強く違和感が残る。外生変数に応じた人々の行動を自己実現的と言うのも通常の用法では無いであろう*2。特に断りも無く常識と大きく異なる意味で単語を使って議論されても、ほとんど何も論証していないのと同じ。そして、用語だけが特異に使われているわけではない。

連載の前半では、著名な数理モデルの存在に気づいていなかったり、数理モデルの中身を理解していないかのような記述が目立った。また、根拠が怪しい批判を借りてきている部分もある(Lucas (1972) への誤解を説明した補足資料、読んでもらえたのであろうか)。原則として利用したり批判したりする論文は全体を読む必要があるし、独自の解釈を与えるのであれば数理的な部分も良く検証してから行って欲しい。

連載の後半では、規範的な議論で省略された部分が大きすぎると思う。リバタリアンを批判しているのに、自由の固有の価値を無視していると同時に、人権などの権利についてもほぼ言及されていない。また、松尾氏が暗に想定している松尾氏の規範*3が実証的にどれぐらい実現されるかで、他人の規範を評価してしまっている気が強くする。この意味で松尾氏が抑圧的だと批判している昔の左翼節と、実際のところは大差ない。試行錯誤のために自由を認めるべきと言う方法論に違いがあるわけだが。

妙にカバーする議論の範囲が広いので、ついていけた人が少なかった気がするこの連載、私もマクロ金融理論やゲーム理論はともかく、倫理学の領域ぐらいから怪しくなり*4、マルクス経済学/哲学は土地勘が全く無くて検証のしようがなかった。分かる範囲からの感想は、言葉の定義を数理モデルの中で理解して行く殺伐さが欠けており、言葉をこねくり回しているだけに思える。言葉が素朴で貧弱な世界の住人の感想でしかないのだが、語感から直感的に議論を組み立てていないであろうか。

*1「国家はリスクをともなう裁量的な決定から手を引いて」とあるのに「公的な財政規模が小さいことや、経済活動への公的規制が緩いことを意味しません」ともあるのだが、公的支出をしたら金銭リスクは国家が負うことになるので矛盾している。金銭リスクはリスクでは無いと言うのであろうか。以前に明確に指摘しておいたのだが、理解されていなくて残念だ。

*2「期待」によって定まる均衡を自己実現的と考えているようなのだが、「期待」が外生的に定まる内生変数であれば、「期待」は何も決定していない事になる。複数均衡モデルで、どちらかに習慣で定まると言う解釈が与えられていれば、「期待」が外生的とも言えるが、取り上げられているモデルは均衡が一意に定まっている。

*3功利主義者に思える。帰結主義者であって、自然権的リバタリアンのように自由の「固有の価値」は認めていない。「長年の因習や文化や宗教などを内面化」した人の顕示選好は認めていないので、他人の幸福を松尾氏が既定している。分配政策にも肯定的である*3。J.S.ミルを評価しているようだが、J.S.ミルは分類すれば功利主義者だ。なお、現役でもピーター・シンガーと言う功利主義者もいるし、別に廃れた倫理でもない。

*4カントの議論は断片的にも確認していない。ドイツ系哲学のオーバービューができる一般書があれば読みたいのだが。

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