2015年4月21日火曜日

あるマルクス経済学者のプロパガンダ(16) - 功利主義で妥協できないのか?

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マルクス経済学者の松尾匡氏の連載『理性による自己支配という自由概念の恐怖──リバタリアンは消極的自由論に徹しているか?』が出ていた。ここ3回は「自由」についての話が続いていて、「リバタリアン的な立場に立ちながら」「福祉政策や不況対策が正当化できる理屈づけ」を模索している。前回では「自由」の定義を摩り替えることが提案されていた。今回は集団主義的な「理性」を前提にした自由が集団による暴力に転化する危険性に言及した上で、リバタリアンの主張がその解決になる事に触れたあと、現代社会はリバタリアンの想定とは異なっていると指摘している。用語の使い方に違和感があるのと、功利主義を押し付けた方が楽に議論できる気がして仕方が無い。

1. 理念に適合しているのか判断する能力が理性

まずは細かい所から。「理性」の定義が良く分からない。一般には(1)目的に対して合理的に判断できる能力、もしくは(2)善悪を判断し倫理的な目的/理念を設定する能力を指していると思うのだが、この範疇に収まらないものになっている。

「自己決定に責任をとれる理性」は、人生に失敗したら救済されなくても、強盗など犯罪行為を行なわないと言う意味であろうか。「全体の理性」は、目的が全体の利益とされる場合を示している気がするのだが、「全体の利益」と書いた方が自然ではないであろうか。

「理性で実現される自由」も謎だ。「飛行機を作って飛ばすのも、ペニシリンを作るのも、その理性が多くの人に共有されてみんなで働きあってはじめてできる」とあるのだが、共有するのは理性ではなく理念であろうし、技術開発や製品生産もそれ自体は一部の人が目的を共有していれば十分なのでは無いであろうか。

広く共有しないと機能しない理念はあるので、文意自体は分からなくもない。例として、もっとシステマチックなものを挙げるべきであろう。商取引や社会保険など制度は明らかに理念を共有している必要があるわけで、これらを挙げたほうがわかりやすい。回りまわって技術開発や製品生産に影響するとも言えるわけだが。

2. 功利主義者になったらシンプルに主張できる

リバタリアンの価値観にそってリバタリアンを説得できれば理想的なのは分かるが、古典の世界ではともかく、現実には不干渉主義こそ規範になっていて彼らを説得する術はない。前にも触れているのだが、分かり合うことを諦めて功利主義を採用する方が楽ではないであろうか。

富の量に対して限界効用は低下することは、幸福度の研究から分かっている。金持ちから貧乏人への所得移転を行なうことで、全ての人の効用の和を最大化することができる。投資量や労働意欲を減退させ生産水準を落とさない程度で、福祉政策や不況対策を正当化するのは容易だ。集団の目的は個人の効用の合算値の最大化になるので、個人が抑圧される程度も制限される。許されるべき自由の程度も、人々の幸福(=効用)に一元化して簡素に議論できる*1

もちろんロールズの議論と同じ問題を抱える。松尾匡氏は、流動的人間関係では他者への共感が沸かないので正当化されないと言う。功利主義から定める制度も、不利な立場になる人々の共感は得られないであろう。しかし、明日は我が身と言う利己的な思考があるからこそ、共感が生まれる。規範が、利己的な考えに基づく同意に左右されてしまって良いのであろうか。そんな事を言えば、あらゆる分配が否定されかねない。

前々回に松尾氏が紹介した議論も、決して同意に支えられたものではない。「ロックの但し書き」を根拠に金持ちに「あなたの資産はあなたの労働から生じたものでは無いですから、税金として資産を差し出してください」と言っても、利己的な金持ちは同意しないであろう。社会制度の恩恵だと分かっていても、金持ちは税金を払いたくないはずだ。

逆に共感などによる同意を倫理の土台にできるのであれば、税金による分配ではなく、寄付による事前活動で十分になってしまう。政府は福祉に消極的な小さな政府で十分なわけで、それは松尾氏が最終的に主張したいことと異なるはずだ。今後の議論がどう展開されるかは分からないが、功利主義的立場から、分配を強化すべきと言ってしまうほうが楽に感じる。

*1例えば道路交通法はドライバーの自由を抑制しているが、混乱を抑制することで全体の幸福は増すので、肯定されることになる。色々な議論を積み重ねて、道路交通法によって自由が増したなどと主張しなくて済む。

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