2015年3月19日木曜日

宗教学たんの罪について

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東京大学先端科学技術研究センター准教授の池内恵氏が、「宗教学たん」なるペンネームで書かれた記事*1に関して、池内氏の著作『イスラーム国の衝撃』に依拠しているのに言及されていないと怒っていた(Facebook)。『「宗教学たん」からのご説明』で宗教学たんが非を認めて話が終わるかと思ったが、「『イスラーム国の衝撃』を剽窃した記事についての対応」で池内氏がさらに宗教学たんを詳細に非難している。言い訳が気に入らなかったらしい。

脚注をつけて参考文献を挙げるべきと言うのは分かるのだが、門外漢には池内氏の記述の新規性が分からないので、宗教学たんが過剰に攻撃されているように思える。池内恵氏は定職を得ている立場の強い人で、(池内氏によると)宗教学たんは求職中のポスドクだ。研究業界の序列を盾に、池内恵氏が一方的に宗教学たんを悪く言っていたりしないであろうか。

1. 素人目には新規性が分からない

宗教学たんが池内恵氏の著作を参考にしたのは本人も認めているわけだし、恐らく全面的に参考にしている。しかしコピペでも無いのだから、剽窃と糾弾するには池内氏の独自性を真似たと認められなければならない。そして、宗教学たんが参照した池内氏の記述だが、素人目には独創性が分からない。具体的に挙げられているのは、(1)フアード・フセインのルポルタージュによるとイスラム国(ISIL)指導者ザルカーウィーが描いていた将来像が終末思想と考えられる、(2)機関誌「ダービク」も終末思想に彩られているの二点だが、これは独創的な研究成果なのであろうか?

(1)のザルカーウィーの将来像に関する宗教学たんの記述を見てみよう:

6)全面対決の時期(2016-2020年):カリフ制の宣言とともに、イスラム軍が信仰者と非信仰者のあいだに戦争を起こす。
7)決定的な勝利とカリフ制の成功(2020年):15億人のムスリムによって、世界の残りの人々が打倒される。
(中略)
問題の終末思想はここから。6)から7)の描写って、じつは昔からある典型的な終末のカタストロフィーをそのまま描き出したイメージなの!

この部分に対しての池内氏のFacebookに書かれた指摘はこうだ:

例えば2020年カリフ制国家構想の第6段階以降は終末論だ、なんてことは私の本の第3章と第7章にしか書いておらず、同じ資料を使った英語文献には書いてない

全面戦争による理想社会の実現と言う終末思想はゾロアスター教以来、ユダヤ教もキリスト教も一部のカルト教団も採用している一般的なものだし、私は「2020年にイスラム軍が信仰者と非信仰者のあいだに戦争を起こし、非信仰者を打倒する」などと言われたらソレだと思う。宗教学たんが池内氏に列挙した英語文献に終末思想と書かれていなくても、終末思想と連想しても不思議は無い。

(2)の機関誌「ダービク」に関する宗教学たんの記述は、『機関誌「ダービク」は終末のシンボル』と言うものだが、池内氏のブログでは以下のようにある:

池内は『イスラーム国の衝撃』の第3章でまずこの部分が終末論的である点を指摘した上で、第7章では「イスラーム国」が発行する雑誌『ダービク』の明白な終末論につなげていきます。それが思想史の謎解きというものです。

ダービクが終末論を展開していること自体は、平凡な指摘に思える。池内氏の著作の発売前に Dabiq: Symbol of Armageddon と言う説明が見られる*2からだ(The Jamestown Foundation)。アルマゲドンは、最後の審判の日に行なわれる善と悪の最終決戦のことだ(Oxford dictionary)。アルマゲドンと結びつけた人がいると言うことは、終末論を連想した人が世界に多数いる事を示している。

宗教学たんが自分で参考にしたと認めているので「イスラーム国の衝撃」を明示すべきだったのは間違いない。しかし、書かれていることが池内氏だけが主張してきた特殊な事柄とも思えない。(1)ISIL指導者の将来像と(2)ISIL機関紙の傾向の二つを同時に言及したのは、池内氏が初と言う事なのであろうか?

2. 宗教学たん独自の誤りは、池内氏の価値を落とすのか?

池内氏は宗教学たんが独自に書いた誤りの部分に関して、「劣化コピー」「ブランドに対するコピー商品のようなもので、対処しなければ被害を被るのは私以外にない」と怒っているのだが、混乱しているように思える。宗教学たんが独自に書いた誤りの部分に「池内恵(2015)によると」と添えられていたら、池内氏のブランド価値は下がるのであろう。しかし、池内氏は「池内恵(2015)によると」と書いていない事を非難しているわけで、その意味で池内氏の作品の同一性や評価を維持できない可能性は無い。逆に「池内恵(2015)によると」が無くても池内氏の著作に依拠することが自明であれば、剽窃の問題は小さくなる。

3. 宗教学たんの罪

文章は作家が苦労して書き上げるものだから、盗作が大きなモラル・ハザードなのは間違いない。また、学術分野では典拠がないと何を根拠にしているのか分からないので、なるべく参考にした文献を明記する必要がある。

しかし、独創性が無いか社会常識まで昇華した事柄に関しては出所をつけないことも多い。隣国で反日感情が高まっていると書く人は少なくないが、最初にそれを思いついた人が誰か明記するケースは稀であろう。逆写像が開集合を開集合に移すときに写像は連続と言う定理は基礎知識まで昇華したのか、これを説明する数学の教科書で初出まで言及している事はほとんど無い。無断で ─ コピペではなく─ 参考にしたことが反社会的なのか。さらにメディアは往々にして典拠を隠す癖があり、学術分野でなければ社会慣習は緩い。世間向けのゆる~い説明記事に、どこまで厳密さを求めるべきか。

池内氏は「私が個人的に許す許さないという問題ではない」と憤っているが、こういう風に考えていくと宗教学たんの罪は不明瞭になる。なお、池内氏に関わらないところで明確な誤りがあるのだが、池内氏は関心が無いようだ。宗教学たんはコーランのムハンマド章3-5節を引用している部分があるのだが、日本語訳からコピペしたのに出所が書いていないと言う明確な問題は、池内氏は批判していない。だから剽窃行為をたしなめると言うより、自分の“発見”が盗まれたと怒っているように見える。

ここで最初の問題に戻る。池内恵氏の著作には新規性があるのであろうか。池内氏が例示している部分からは、それが良く分からない。

*1メルマガ『寝そべり宗教学』で配信され、東洋経済ONLINEに転載されている:『「宗教学たん」と考える、イスラム国の宗教観』『「イスラム国」の呼称、避けるべきではない』『イスラム国は、「2020年の勝利」を信じていた

*2『外交』第23号の池内論文の方が先になるので、池内氏が剽窃した事にはならない。また、日本語論文が海外で読まれる可能性は極めて低いであろうから、英文記事の著者が剽窃したわけでも無いであろう。単に同時期に同じことを思いついた人が多数いるだけだと考えられる。

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