2014年11月14日金曜日

あるマルクス経済学者のプロパガンダ(12)

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マルクス経済学者の松尾匡氏の連載『リスク・責任・決定、そして自由!』の新記事『旧リベラル派の「社会契約」という「ゴマカシ」』が出ていた。本題は著作の宣伝な気もするが、社会保障を正当化する哲学的議論も紹介している。小うるさい哲学者と厚生経済学者が待ち構えている倫理の問題に踏み込んでいるのだが、幾つか大丈夫なのか疑問に思う所がある。ロールズの議論が理解されているのか疑問だし、規範的な議論を実証的に批判してしまっているし、「社会契約」と言う単語に固執しすぎているように思える*1。この辺の議論は平成24年版 厚生労働白書の第1部第2章に分かりやすい解説が書いてあるのだが、それを参考にしつつ問題点を説明したい。

1. なぜ社会保障制度に哲学的議論が必要なのか?

松尾氏に前段として書いて欲しかった事がある。社会保障でも全員が得になるパレート改善になるような制度は哲学的な議論なしで、だいたい正当化される*2。例えば情報の非対称性があるときに、民間保険会社が激しい競争をすると、低リスク契約者向けの保険が提供されない逆選択が発生する。こういう時は政府が国民を単一保険に強制加入させることで問題を解決し、全員が金銭では無く安心感や幸福度で見て得になる。しかし、生活保護や公的年金など大半の社会保障制度は、損得が出てくるのでパレート改善にはなっていない。だから、誰かに損をさせる事を倫理的に正当化する必要が出てくる。

2. 社会保障制度が生まれた歴史的な背景

近代的な社会保障制度が生まれたのは、産業革命以後に労働者の孤立化が進んだからと言われている。生まれ育った地域社会を離れて工場勤めをすることにより、血縁や地縁の関係から一定程度独立した結果、困ったときに誰も助けてくれなくなったからだそうだ。前近代の地域社会の相互扶助なんて限定的だったと思うが、何はともあれドイツでビスマルクが疾病/労災/老齢・障害の三種類の保険制度を1883年から順次制定し、英国など諸外国に広がっていった。ただしスピーナムランド制度が1795年にあるので、欧州に広く社会福祉の必要性は認められていたようだ。

3. 社会保障制度を正当化するための哲学

ビスマルクは労働者階級への共産主義の浸透を防止するために社会保障制度を制定したと言われている*3。これが理由であれば、体制の維持を正当化する必要はあっても、社会福祉自体の正当化は不要だ。しかし第二次世界大戦後は単に体制維持のためではなく、むしろ福祉の提供が政府の目的のように認識されるようになった。すると、なぜ福祉国家であるべきなのか正当化し、どのような福祉サービスを提供すべきかについての指針が必要になる。

この正当化の議論で有名なのはロールズの「正義論」で、ロールズ型社会厚生関数と言う形で経済学にも浸透している。松尾氏も紹介しているが、ロールズは、人々が自己の利益が分からなくする「無知のベール」に覆われた状態、つまり自分の立場や損得を忘れた「原初状態」に立ち返れば、「誰もが社会の最も恵まれない立場に置かれる可能性を想定し、それをできる限り良いものにする」ような社会の原理を選択すると考えた(格差是正原理*4)。福祉国家万歳。批判者も多々いるが、アマルティア・センもロールズの議論は高く評価しているし、ここが議論の出発点になる*5

4. ロールズの格差是正原理は契約した覚えがある必要は無い

ここまでは松尾氏の議論と大差ない。リバタニアンのロバート・ノージックと、コミュニタリアンのマイケル・サンデルのロールズへの批判*6を紹介して、「そんな契約身に覚えない」と二つの批判をまとめているが、この表現では誤解を招くかも知れない。ロールズの議論では個々の状況を忘れた上で、必要な福祉が設定されるところがポイントだからだ。規範的に身に覚え無い不本意なものが正しくなる。

松尾氏のロールズの説明と同じ事を言い換えているように感じると思うが、『「自分の身にも将来降り掛かってきかねない」というリアリティ』を感じる必要性が無いところがポイントだ。もし、社会福祉が共感を基礎に置いたものであれば、それはパレート改善が望める保険でしかないから、「無知のベール」が無くても社会福祉は正当化されてしまう。

先天性の病気にかかった人を扶助するかを考えてみよう。健常者から見ると「自分の身にも将来降り掛かってきかねない」というリアリティは、そこには無い。すると、松尾氏のロールズの解釈では先天性の病気の人は扶助されない事になる。しかし、「無知のベール」に覆われた状態であれば、自分が先天性の病気を持って生まれていたかも知れないと考えるので、先天性の病気にかかった人を扶助することになる。

つまり、共感がリアリティとして感じられることが正当化の根源だとする松尾氏のロールズの解釈はおかしい。

5. 流動的人間関係だからこそロールズの正義で社会福祉が正当化される

松尾氏は(氏の言う)固定的人間関係が崩れたから、リベラル派社会契約のリアリティが崩れ、ロールズの議論が現実妥当性を失っていると批判する。これはおかしい。

まず、規範的な正当性を、実証的に崩そうとしている。ロールズの議論は規範的な議論だから、リアリティ云々は関係ない。殺人を禁じる規範が、殺人者によって破られたからと言って、規範が崩れるわけではない。

次に、ロールズの議論から考えれば、固定的人間関係による相互扶助がなくなるのであれば、最も恵まれない立場が悪化するわけで、むしろ社会福祉を充実しないといけない。また、「無知のベール」を被っていない労組や業界団体の社会的合意を取り付ける必要も無い。

次に、ロールズの主張する言論の自由や思想・良心の自由(第一原理:平等な基本的諸自由の保障)がグローバル化で価値観が多様化し現実と合わなくなったと批判しているが、社会保障にかかる格差是正原理はそれに関係なく保持される。外国人を差別する理由はなくなりそうだが。

最後に、歴史的に何かがおかしい。流動的人間関係になったからこそ社会保障制度が必要になったはずだ。19世紀から松尾氏の言う転換Xが起きていた。松尾氏は「国家のシステムによって、個人が血縁や地域や教会や慈善団体などの中間団体の縛りから解放」と書いているので、社会保障制度が流動的人間関係をもたらしたと考えているのかも知れないが、すると70年代以降の固定的人間関係の崩壊は結果であって原因にはなりえない事になる。

6. リベラルな人々はロールズの正義を受け入れていたのか?

そもそも論なのだが、リベラルな人々は本当に倫理的支柱をロールズの議論に置いていたと言えるのであろうか。たまたま結論の方向性が近かっただけで、リベラルな人々は異なる倫理感を持っていたのでは無いであろうか。

多数派が『「自分の身にも将来降り掛かってきかねない」というリアリティ』を持つから、社会保障制度が正当化されると言うのは、規則功利主義的な正当化だ*7。また、租税の苦痛が軽微である一方、困窮者の苦痛が膨大だとするのであれば、社会が困窮者を助けることは直接功利主義でも肯定されるであろう。

実はリベラルな人々の倫理は功利主義的なものであって、だからこそ弱者への共感を失わせる「固定的人間関係の原理が崩れ、流動的人間関係の原理が俄然メジャーになっていく転換」が、問題となりうるのでは無いであろうか。そうだとすると、松尾匡氏のロールズ批判は的を間違えた議論になっている。

*1ロールズの議論は社会契約論の系譜につながるが、ここでの「契約」は一般的な意味を持つものではない。『リベラリズムとは何か―ロールズと正義の論理』(P.91)では契約論は表の顔で、内省的均衡が重要だと指摘されているそうだ。

*2サンデルも自律と互恵性があれば、契約は道徳的であるとしている。これはパレート改善が望める場合は道徳的と解釈して問題ないであろう。

*3社会保障制度はいつ何のために始まったか | 巻頭言バックナンバー | 生活福祉研究 | 刊行物 | 調査研究・情報発信 | 明治安田生活福祉研究所」を参照。

*4ロールズは平等な基本的諸自由の保障や、公正な機会の均等の保障も主張している。

*5なお、リベラル一般に知られている話では無いので今回の議論には直接関係は無いが、経済学には無羨望配分と言う公平性の基準もある(『能力が「自己責任」なら、成果主義は理にかなう :日経ビジネスオンライン』を参照)。パレート効率的かつ無羨望な状態になるように、社会保障制度を設計することは一つの方針になる。

*6ノージックは人が自らの保有する資源に対して正当な権原があるから、それを国家が勝手に侵害するのは許されないと批判している(権原理論)。サンデルの方は、「無知のベール」に覆われたと仮定したときの選択に意味があるのかと批判しているようだ。どちらとも現実の個々の立場を無視していいのかと言う批判になり、「そんな契約身に覚えない」と言うことにはなるが、ロールズの議論ではむしろそれが倫理的な正当性を保証する。

*7功利主義は「最大多数の最大幸福」で短く説明される事が多いのだが、規則功利主義をとり幸福の尺度を定義することで議論にバリエーションが出てくる(関連記事:功利主義入門 ─ はじめての倫理学)。

1 コメント:

松尾匡 さんのコメント...

早速ありがとうございます。
ロールズ理論の性格についておっしゃることは、だいたいその通りだと考えております。

表現のしかたになお工夫がいると思いますが、「かくかくしかじかの規範理論が人々に(ロールズ理論を知っているかどうかはともかく)受け入れられたのはなぜか」という、一段メタな次元での実証理論を論じているわけです。

本来、「固定的人間関係による相互扶助がなくなるのであれば、…むしろ社会福祉を充実しないといけない」というロジックになるのはその通りで、そこでその後メジャーな政治路線の背後にこれを正当化する規範理論が見出されるかどうか、見出されないならどんなものが提唱されるべきかということが、このあとの連載の予定になります。

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