2013年10月1日火曜日

文芸評論家のための民主主義に関する読書ガイド

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文芸評論家の東浩紀氏の民主制度に対するツイートが人気になっていた。はてなブックマークに「民主主義について考えたいなら、政治学の教科書でも読んだほうがいい。」と言うコメントがついていたが、本当に「政治学 補訂版」でも読んだ方が良さそうだ。文芸作品の読みすぎで、虚構と現実の見分けがつかなくなっている気がしなくも無い。

1. 政治学の知見が忘れ去られている

「民主主義(大衆の多数決による政策決定*1)」が暴走すると主張しているのだが、そんな事は大昔から理解されている。さらに現在の大半の国の民主制度*2では、それの防止は意識されている。代議士を選ぶ間接民主制で大衆による情緒的な意思決定は避けているし、行政や立法と距離のある司法制度で代議士の暴走も抑制されている*3

2. 気に入らない政治が民主制度の暴力とは言えない

政治学の文脈を無視しているだけではなく、社会科学としての文脈も問題がある。東氏は東関東大震災後に民主制度を疑いだしたと言っているので、最近の政策や選挙結果が気に入らないと言うことであろう。しかし、東氏が気に入る政策を実行すべき、東氏が気に入った立候補者が当選すべきと言う明確な根拠は無いわけで、かなり大きな論理の飛躍があるわけだ。

3. 望ましい社会的厚生関数は何か考えた?

そもそも利害関係があるときの個別の政策をどう評価していいのかが良く分かっていない。社会的厚生関数を置いて評価するにしろ、バーグソン=サミュエルソン型の押し付けがましいものから、多数決暴力的なベンサム型*4、社会的弱者救済的なロールズ型、調和平均的なナッシュ型など色々あって、どれが望ましいかなんて良く分からない。

4. 熟議は多数決の暴力の防止以外に役立つかも

熟議に対する懐疑も良く分からない。情報非効率とも言える時間をかけた熟議がもたらすのは議決の一貫性などであって、多数決の暴力の排除ではない。例えばコンドルセのパラドックスとして知られているが、単純多数決を続けると一貫性の無い政策決定が行われる可能性がある。この辺りの民主制度の数理的な解析は社会的選択論として膨大な知見の蓄積がある*5が、こういうシステマチックな問題の一つのあり得る回避方法が熟議として知られているわけだ。

5. 文芸作品をもとに民主制度を議論するべからず

民主制度にはこういう議論が積み重なっていることを考えると、東浩紀氏の民主制度批判はSF小説「銀河英雄伝説」の読書感想文的なモノでしかないことが分かる。何はともあれ東氏は望ましい社会的厚生関数を示した上で、民主制度がそれを実現できない事を示す必要があるであろう。前者が決まれば後者は数理的にテクニカルな問題に過ぎないので、ロールズの「正義論」から読めばいいかも知れない。

6. 下手に近づくと馬鹿にされるよ!

こうしてみると哲学、政治学、経済学で高度に専門家され分析されているのが民主制度であって、もはや文芸評論家が言論とかゆっちゃって付け入る隙がどの程度あるのかが良く分からない状態になっている。参入障壁は極めて高い。もしオレの意見を賛美しない大衆が許せないと言うモチベーションで民主主義批判を行っているのであれば、手を出さない方が賢明かも知れない。裏を取らずに言葉遊びをはじめると、馬鹿にされる可能性は低くないからだ。

嗚呼、読書ガイドにならなかったヽ(´ー`)ノ

*1歴史的に民主制度は「大衆の多数決による政策決定」とも言い難い所もある。宗教革命後の新教徒のコミュティーでは、全会一致で物事を決めていた。意見が割れてまとまらないように思えるが、キリスト者として“内なる光”に問いかけることで宗教的に万人が同一の正しい結論を導き出せると言う事らしい(民主主義の本質)。カトリックでも新教皇の選出は全会一致になっているし、室町幕府の合議も全会一致が原則だったらしいので、同質の価値観を持つ人々の間では必ずしも多数決だけが意思決定手段ではない。

*2demo-cracyを直訳すると民主制度のはずで、社会主義(socia-lism)や自由主義(libera-lism)とはちょっと違う。

*3行政機構や選挙制度が政治に与える影響も分析されており、もっと詳細なレベルでの衆愚政治っぷりが議論されている(関連記事:大阪 ─ 大都市の地方自治はどうあるべきか)。

*4規則功利主義的な立場をとれば、必ずしも多数決の暴力的な結果をもたらすとは限らない(関連記事:功利主義入門 ─ はじめての倫理学)。

*5同志社大学の田中靖人氏の「社会的選択理論の諸相」が知っておくべき議論をまとめている。

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